夜。
時計の針が十一時を過ぎたころ、静まり返った部屋のドアが小さくノックされた。
「……入っていい?」
その声はかすれていて、どこか怯えていた。
蓮司は、読みかけの本を伏せたまま、視線だけでドアを指す。
「いいよ。どうぞ」
入ってきたのは、高校生くらいの女の子だった。制服の上着を握りしめていて、
寒いのか、それともただ、緊張しているのか分からない。
「……あの、変なこと言うかもしれないけど」
彼女は椅子に座ると、少し間を置いてから、ぽつりと続けた。
「最近、“消えたい”って思うんです」
蓮司は頷くだけで、言葉を挟まない。
彼女はその沈黙に少し安心したようだった。
「前は誰かに言ってたんですよ。“もう無理かも”とか、“生きてるの疲れた”とか。
でも言うたびに、“そんなこと言うなよ”とか“頑張れ”って返されて……」
彼女の指が、膝の上でぎゅっと組まれる。
「それ聞くの、もうつらくて。だから言わなくなりました」
蓮司は、机の上のマグカップを指先で軽く回しながら言う。
「“消えたい”って言葉、悪いものみたいに扱われるけどさ。
本当は、それだけの気持ちを抱えてるってことだよ」
彼女の目が、一瞬だけこちらを向く。
「でも……言っても、何も変わらないじゃないですか」
「変わらないかもしれない。でも、“言えた”ってこと自体が、大きいんだよ」
蓮司の声は穏やかで、静かな夜気に溶けるようだった。
「誰かに届くかどうかより、“自分が声にした”ってこと。それだけで、少し息ができる」
彼女は俯いたまま、小さく息を吐いた。
「……本当は、気づいてほしかったんです。
でも誰にも届かなくて、もう言葉を出すのも怖くなって」
「うん。怖くなるよな」
蓮司はゆっくりと頷く。
「人に言っても、軽く流されたり、正論を返されたり。
だから余計に、自分の気持ちが“間違い”みたいに感じる。
でも、そう感じてる時点で、もう充分頑張ってる」
しばらく沈黙が落ちた。
外では風が木の枝を揺らしている。
その音が、やけに遠く聞こえた。
「……蓮司さんは、そんなときどうしてますか?」
「俺?」
蓮司は少しだけ笑って、マグカップを持ち上げた。
「無理に前向きにはならないかな。
“消えたい”って気持ちも、ちゃんと自分の中に置いておく。
それを無理に否定すると、余計に苦しくなる」
彼女はその言葉を噛みしめるように、うなずいた。
「……置いておく、か」
「うん。ちゃんと自分のものとして認める。
それで、少しだけ呼吸ができたら、それでいい」
沈黙が戻る。
でもその沈黙は、さっきよりもやわらかかった。
彼女が帰り際、ドアの前で小さく呟いた。
「……“言ってもいいんだ”って思えたの、久しぶりです」
蓮司は微笑んで、
「また来な。消えたくなったときでもいい」
とだけ言った。
ドアが閉まり、静寂が戻る。
マグカップの中で、まだ少しだけ湯気が揺れていた。







