整にとって、この家の中で呼吸をすることは罰に近かった。
母は兄の絢人のことだけを気にかけ、父は何も見ない。整に向けられる言葉といえば、「邪魔だ」「あんたなんかいなければよかった」という吐き捨てだけだった。
「整、皿、片づけろよ」
兄の声は低く冷たい。食卓のあと、母が微笑んで兄にだけ「ごちそうさま」と言う。整が手を伸ばして片づけを始めると、わざと兄が椅子を引いて足を引っかけてくる。
「っ……」
倒れかけた身体を支えると、兄はわざとらしく笑った。
「ドジだな。ほんと、いらねえ」
母も父も、咎めるどころか笑って見ている。整は声を出さずに皿を重ね、台所に運んだ。
夜。布団に潜り込んで眠ろうとした時、襖が乱暴に開かれる音がした。
「整」
名を呼ばれ、身体がびくりと強張る。兄の影が月明かりに歪んで伸びる。
「なんでお前、生まれてきたんだろうな。俺が一人っ子ならよかったのに」
絢人の言葉はいつも刃だった。顔を覗き込まれ、髪をつかまれる。整は必死に声を堪えた。抵抗すれば母が怒鳴り、兄の味方をする。だから動けない。
「俺に逆らうなよ。お前は、この家にいていい人間じゃねえんだから」
低く笑いながら布団を剥ぎ取り、肘で腹を押さえつける。痛みで呼吸が途切れた。涙がにじんでも、助けは来ない。母も父も、この部屋の声を聞こうとしない。
整はただ心の中で繰り返す。
――どうして、俺だけ。
――どうして、望まれなかった。
朝になると兄は外面を取り繕い、学校では誰もが羨む笑顔を見せる。整だけが、家の中で壊されていく。
けれど、それでも整は祈るように思っていた。
「俺は……優しくありたい」
誰からも求められなくても、殴られても、罵られても。
せめて心だけは、兄のように冷たいものに染まりたくない。
その願いはひどく脆い。
兄の影は濃く、声は鋭く、整の胸を踏みにじり続ける。
救いはないまま、夜はまた訪れる。
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