放課後の相談室。窓のカーテンは半分開いたままで、西日の橙色が机の上に帯を落としていた。部屋は静かで、扇風機の回る音だけが漂っている。
「……失礼します」
控えめな声とともに、扉が開いた。入ってきたのは同学年の男子だった。普段は教室でよく笑っている顔だが、このときは影を落としたように固い表情をしていた。
日下部は机に肘をつき、静かに顔を上げる。
「……座れよ」
男子は躊躇しながら椅子に腰を下ろした。しばらく俯いたまま、机の木目を指先でなぞる。
「……大事なものを、失いました」
ぽつりと落とされた言葉に、日下部の眉がわずかに動いた。
「大事なもの?」
「……犬です。小学校の頃からずっと一緒にいたんです。帰ったら玄関まで走ってきてくれて。散歩も、ご飯も……全部日課みたいになってて」
言葉がそこで途切れた。喉が詰まっているのが見てとれる。
「でも、ある日、もう……いなくなって。頭では分かってたつもりだったんです。生き物だから、いつかはって。でも、現実になったら……家の中があまりにも静かで」
息を吸い、吐くたびに肩が揺れている。
日下部は視線を外し、腕を組んだ。何か気の利いた言葉を探そうとするが、頭の中に浮かんでは消えていく。
結局、不器用な声で呟いた。
「……静けさって、やけに残るよな。普段は気にしてなかった音とか……なくなった途端に耳に刺さる」
男子が少しだけ顔を上げた。驚きと戸惑いが混じった目。
日下部は気恥ずかしそうに目を逸らしたまま続ける。
「俺も……似たことあったから。帰ってきても、もう二度と声がしないってわかる感じ。あれは……きつい」
沈黙が落ちた。二人の間に時計の秒針の音だけが響く。
「……どうしたら、この穴、埋まるんですかね」
男子の声は震えていた。
日下部は天井を仰ぎ、深く息を吐いた。
「……埋めなくてもいいんじゃねぇかな」
男子が目を見開く。
「無理に埋めたら、かえって変な形になるだろ。大事だったなら、穴が残るのは当たり前だし……それを抱えててもいいんじゃねえか」
「……でも、苦しいです」
「そりゃ苦しいだろ」
日下部はあっさり言った。
「でもさ、その苦しさって、ちゃんと大事にしてた証拠なんじゃねえの。忘れるよりはマシだと思う」
男子は膝の上で手を握りしめ、俯いた。
やがて小さな声で「……俺、覚えててもいいんですか」と呟く。
「いいだろ。むしろ忘れる必要なんかねぇよ」
日下部は不器用に口元を歪めた。
「思い出すたび痛いかもしれねえけど、それって一緒にいた時間が残ってるってことだし。……それ、消えたらもっと寂しいだろ」
男子の目が潤み、口元が震えた。
「……そうですね」
短い返事の中に、少し力が戻ったように感じられた。
男子は椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。
「……ありがとうございました」
扉が閉まり、再び部屋に静けさが戻る。
日下部は机に肘をついたまま、小さく息を吐いた。
「……俺、ほんとに向いてねぇな」
誰にも聞かれない声でそう呟きながらも、その表情は、どこか柔らかかった。
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