【場面】 祖母の家(山間の小さな町)に到着した翌日、8月の初め。
古びた木造の家は、都会のコンクリートとは違う、土と木の匂いがした。
佐伯悠太、中学一年生。大きなリュックサックを背負い、祖母の縁側に座って、真新しい絵日記帳を眺めていた。都会の蒸し暑さとは違う、肌を滑るような涼しい風が吹く。
「……長いなぁ、30日間」
正直に言って、彼は夏休みの全てをこの小さな町で過ごすことに辟然としていた。スマホの電波は不安定だし、近所にコンビニもない。都会での友達とのゲームや映画の予定は全てキャンセルになった。
そんな悠太の耳に、庭の向こう、裏山に続く小道から、大きな叫び声が響いた。
「この、逃げんじゃねえぞ! このヘタレ!」
そして、ガサガサという草の音。次に現れたのは、半袖半ズボンに麦わら帽子、そして素足にサンダルという、絵に描いたような田舎の少女だった。
彼女は手に木の枝を持ち、何かの虫を追いかけているようだった。髪は太陽の光を浴びて茶色く、肌は健康的に焼けている。背丈は、少し背伸びをしないと悠太の目線に届かないくらいだ。
悠太が呆然と見つめていると、少女は追いかけていたものを逃がしてしまったらしく、枝を地面に叩きつけてこちらを向いた。そして、悠太の顔を見るなり、瞳を大きく見開いた。
「……あ、なんだ。ユー坊じゃん」
『ユー坊』。その響きに、悠太の記憶が一気に七年前にフラッシュバックした。彼の幼少期、祖母の家に遊びに来るたびに、いつも一緒に遊んでいた幼馴染み。
「……あ、葵(あおい)?」
「アオイはもう卒業した。今は沢村葵だ、悠太」
彼女——沢村葵は、悠太より一つ年上の中学二年生になったはずだ。けれど、その喋り方や、ちょっと勝ち気そうな笑顔は、七年前と全く変わっていなかった。
葵は悠太の全身を品定めするように、頭からつま先までジロジロと見た。
「ふうん。背は伸びたな。でも、相変わらず荷物が多い。まるで観光客みたい」
「うるさいよ。これは宿題の資料と、あと—」
「あと、なんだ? カブトムシの図鑑か?」
「え、なんで知って……」
「アンタの性格なんて、手のひらを返してやるより簡単だよ。で?」
葵は腕を組み、ニヤリと笑った。その笑顔は、太陽の光で目を細めるようだった。
「せっかくこのクソ暑くて何もない田舎に帰ってきたんだ。今年こそ、私と一緒に本当の夏休みを過ごす覚悟はあるんだろうな?」
悠太はごくりと喉を鳴らした。
この、一方的で、強引で、でもどこか懐かしい『命令』が、これから始まる30日間の全てを塗り替えてしまうことを、この時の彼はまだ知らなかった。
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