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蒼依の膝が、胸骨のちょうど真ん中に入っていた。
息が浅くなる。腕は背中側へひねり上げられ、頬は板張りの床へ押しつけられている。鼻先に、拭きたての木の匂いと、昼の仕込みに使ったらしい玉ねぎの甘い匂いが混ざっていた。
こんなに生活感のある匂いに包まれて取り押さえられる経験は、一翔のこれまでの二十六年になかった。
しかも押さえつけている相手は、恐ろしく手際がいい。
片膝で体重をかけながら、もう片方の足はいつでも動ける角度に開いている。左手で一翔の手首をまとめ、右手は腰の剣へ軽く触れていた。宿屋の娘というより、戦う者の姿勢だった。
「もう一回聞く」
耳元へ落ちてきた声は、低くも高くもない。けれど迷いがない。
「誰。どこから入った。何しに来た」
質問が短い。逃げ道を作らない聞き方だ。
一翔は床へ顔を押しつけられたまま、視線だけを動かした。正面には食堂の長机。窓辺には朝の日差し。壁には手入れの行き届いた鍋と木匙。入口近くには旅装の客が三人ほど、椅子を引いて固まっている。全員、今の状況を「宿へ泥棒が落ちてきた朝」と理解している顔だった。
理解していないのは一翔だけだ。
昨日までいたのは、蛍光灯の白い光が滲む事務所だった。安い紙コップの苦いコーヒー。帰りの高架下。首輪のない犬。黒い穴。
その次に目を開けたら、見知らぬ物置の麻袋の山へ頭から突っ込んでいた。そして扉を開けた瞬間、この女――蒼依に投げ飛ばされた。
説明して助かる材料が、ひとつもない。
「答えないなら、縛ったまま役場へ連れていく」
役場、という単語に、部屋の隅で客のひとりが小さく身じろぎした。嫌な響きなのだろうと、一翔は反射で察した。
察したところで、使える説明は出てこない。
だから、一翔はいつもの癖で、まだ形になっていない言葉の棚を頭の中で開いた。相手が欲しがる答えは何か。どこまで本当を混ぜれば嘘が立つか。とりあえず今必要なのは、怪しくても即座に斬られない肩書きだ。
「……話せば長いんだけど」
言い終わる前に、二階から、乾いた裂け目のような音がした。
バギン、と壁板が内側から膨らみ、次の瞬間、白い粉塵と木片をまき散らして何かが食堂へ転がり込んだ。
客の悲鳴が重なった。
蒼依の膝が胸から外れ、一翔の上から風のように離れる。彼女の剣が半ばまで抜かれ、朝の光を反射した。
床へ爪を立てたそれは、獣のようで獣ではなかった。
四足に見えたかと思えば、次の瞬間には脚が三本に減り、背中らしき場所から耳が生えて、顔の位置がずるりとずれる。輪郭が揺れている。毛の色も固まらない。薄灰、煤けた黒、曇った銀が、水面のように流れ続けていた。
ただ、分かったことがひとつだけある。
あれは、暴れたいのではない。どこかへ行きたいのに、自分の行き先を持てずに苛立っている目だ。
蒼依の剣先が、その喉らしき場所へ向いた。
一翔は考えるより先に叫んでいた。
「待て!」
蒼依の視線が一瞬だけこちらへ走る。
その一瞬で、一翔は揺れる獣へ言葉を投げた。
「お前、逃げたいんじゃない。走りたいんだろ。広いところを、まっすぐ。だったら――」
名前は、短い方がいい。呼ばれやすくて、口の中で転がるもの。軽くて、上へ抜ける音。
「ソラだ」
食堂から音が消えた。
獣の輪郭が、息を吸うように締まる。ぶれていた脚の本数が四本で定まり、尾が一本、細く長く伸びる。顔の位置が固まり、三角の耳がぴんと立った。灰色だった毛並みは、風に吹かれた雲の裏のような淡い銀へ落ち着いた。
剣を向けられていた小獣は、蒼依ではなく、一翔を見た。
そして、ふっと鼻を鳴らした。
さっきまで人の不安に引きずられていた気配が、するりと薄れていく。
客のひとりが、椅子の背にしがみついたまま呟いた。
「……止まった」
もうひとりが、喉を引きつらせる。
「正式な術式、光ってねえぞ」
蒼依は剣を抜き切らないまま、小獣と一翔を交互に見た。警戒を解いてはいない。けれど、斬り伏せるべき対象が二つとも、さっきまでとは少し違って見えたのだろう。
小獣――いや、ソラは、砕けた壁の方へ一度だけ目を向けたあと、とことこと一翔のそばへ寄ってきた。
そして、床に転がっていた一翔の袖口を咥えた。
引く。ぐい、と引く。
まるで「立て」と言っているようだった。
「いや今それどころじゃ――」
袖をさらに引かれた。
そこで、食堂の奥の暖簾が上がる。
現れたのは、細い指に薬草の匂いをまとわせた女だった。年は蒼依より少し上だろうか。髪を後ろでゆるくまとめ、手には布に包んだ小瓶を提げている。騒ぎの真ん中へ出てきたのに、足取りが妙に落ち着いていた。
彼女は壊れた壁を見上げ、剣を半ば抜いた蒼依を見て、最後に一翔の足元で袖を咥えるソラを見た。
「うん。揉める順番、間違えてるね」
柔らかな声でそう言ってから、彼女は食堂全体を見回した。
「正式かどうかは、あとで揉めればいいよ。まず、この子が落ち着いてる理由を見る」
空気が少しだけ戻る。
蒼依が、警戒を解かないまま訊いた。
「万恵、見て分かる?」
「見てみる」
万恵と呼ばれた女はしゃがみ込み、ソラと視線を合わせた。ソラは逃げない。ひくりと鼻を鳴らしたあと、彼女の指先の匂いを確かめるように近づいた。
万恵は、その瞳をのぞきこんで小さく笑う。
「この子、自分の形を持ててる」
その言葉に、一翔の喉の奥がじんと熱くなった。
自分でも何をしたのか、まだちゃんと分からない。ただ、あの瞬間、目の前の獣へ「お前はこうありたいんだろ」と言葉を置いた。それだけで、こんなふうに世界の手触りが変わるものなのか。
蒼依が振り向く。
「……で。あんたは誰」
剣先はまだ下がらない。
だが今度の問いは、さっきよりわずかに「斬る前提」ではなくなっていた。
一翔は、袖を咥えたまま離さないソラを見下ろした。
この状況で「異世界転移してきた営業です」と言っても、通らない。むしろ通った方が怖い。なら、事実の一部だけ抜いて、いま目の前の現象に筋が通る肩書きを出すしかない。
「……旅の、名付け師」
蒼依の眉が上がる。
客がどよめいた。
一翔は心の中で深くため息をつきながら、口の動きだけは止めなかった。
「遠方の学房で、記録から落ちた存在の調査をしてた。移動術の事故に巻き込まれて、ここへ落ちた。そういうことにしてくれると助かる」
「最後だけ本音ね」
万恵が言った。
蒼依は呆れたような顔をしたが、それでも剣は鞘へ収めた。
「助かるかどうかは、あんた次第」
そう言って彼女は一翔の腕を引き起こした。立たされる。胸に残る膝の痛みがじわりと広がった。
食堂の窓から、朝の光が入り込んでいる。割れた壁からは、砕けた木屑と二階の寝具が半分のぞいていた。宿としては惨状なのだろう。それでも台所からは出汁の匂いが消えていなかった。火はまだ生きている。
この場所は、壊れながらも、生活をやめていない。
それが妙に胸へ残った。
◇
ほんの数時間前、一翔は元の世界で、閉まりかけた事務所の灯りの下にいた。
机の上には売れ残りの浄水器の資料。会議で使った営業台本。上司に褒められた成功例のメモと、客の顔を曇らせた失敗例の走り書き。
夜の事務所には、昼の勢いが抜けたあとの疲れが沈んでいた。
一翔は紙コップのコーヒーを飲み、すぐに顔をしかめる。苦い。酸味も甘みもなく、ただ舌に刺さるだけの味だ。だが、眠気を飛ばすにはちょうどいい。
引き出しから、角の擦り切れた大学ノートを出す。
表紙に自分で書いた文字は、少し滲んでいた。
――苦いノート。
誰にも見せたことのない名前だ。
一翔は椅子へ浅く腰かけ、今日の分を書き足した。
「相手が欲しい未来を先に言う」
「言い切った後に、逃げ道も用意する」
「今日の失敗。言い切りが早すぎた。まだ相手が怖がってる段階で未来を押しつけた」
「修正。相手が失うものを先に減らす。得する話はその後」
「成功。子どものいる客には、静音性より夜泣き後の手入れの楽さを先に出した」
箇条書きの並びは、まるで反省文みたいだと、ときどき自分でも思う。
けれど、一翔はこの作業をやめられなかった。
昼の会議で大きい顔をしたあとでも、帰り道には、言葉ひとつで救えたものと傷つけたものが頭に残る。うまく売れた日ほど、自分がどこまで相手の背中を押して、どこから押しすぎたのかが気になった。
嘘をつくのが上手い、という評価は何度ももらった。
そのたびに一翔は笑って受け流したが、本音では少し違うと思っている。
自分がやってきたのは、嘘を真実に見せることではない。相手がまだ形にしていない願いへ、先に言葉を置くことだ。もちろん外すこともある。外した時は、ただの押し売りになる。
だから記録する。外した角度を。通った言い回しを。二度と同じ顔へ同じ雑な言葉をぶつけないために。
ノートを閉じた時には、日付が変わっていた。
事務所を出る。春先の夜気はまだ少し冷たく、高架下には湿ったコンクリートの匂いがあった。駅前の明るさを離れると、街の音が急に遠くなる。
そこで、首輪のない犬を見つけた。
中型犬。毛並みは悪くないが、耳がずいぶん汚れている。人間を警戒しているくせに、完全には逃げない距離で立ち止まり、じっとこちらを見ていた。
「迷ったか」
犬は答えない。当然だ。
だが、一翔は足を止めた。コンビニ袋の中を探り、水だけ買うつもりでついでに入れたサラダチキンを取り出す。包装を少しだけ裂いて差し出すと、犬はにおいを確かめたあと、ぱくりと食べた。
「名前、ないのか」
暗がりの中で、犬の目だけが妙に真っ直ぐだった。
一翔はしゃがみ込み、思わず口にした。
「名前があった方が、呼ばれやすいだろ」
その瞬間だった。
アスファルトの一部が、黒い水面みたいに揺れたのは。
踏み込みかけた右足が沈む。反射で身を引こうとした時には遅かった。重力の向きが裏返ったみたいに、身体が下へ引き込まれる。
コンビニ袋が宙を舞い、苦いノートを抱え込んだ腕だけが辛うじて離れなかった。
視界が暗くなり、耳鳴りがして、胃がひっくり返る。
最後に見えたのは、首輪のない犬が吠えもせず、ただじっと穴の縁を見下ろしている姿だった。
そして次に気づいた時、一翔は麻袋の山に頭から突っ込んでいた。
◇
「つまり」
蒼依は腕を組んだ。
場所は朝凪亭の裏手にある、物置の横の小部屋だった。窓は小さいが、寝台はきちんと敷かれている。壁際には洗ったばかりらしい木桶。壊れた宿のくせに、空き部屋の手入れは丁寧だった。
その部屋の中央で、一翔は椅子に座らされている。足元にはソラ。なぜか完全に居つく気で丸くなっている。
蒼依が言う。
「旅の名付け師。遠方の学房。移動術事故」
「そう」
「三つのうち、一番信じにくいのどれだと思う?」
「全部?」
「正解」
即答だった。
一翔は肩をすくめた。開き直ったわけではない。ただ、ここで妙にしおらしくなっても、余計に怪しい。
部屋の入口にもたれていた万恵が、くすりと笑う。
「でも、名無しを落ち着かせたのは本当」
「本当すぎて困るのよ」
蒼依は額を押さえた。
「正式名付けなら、もっと大げさに光る。神殿か役場の記録印とつながる。あんたのは何も出なかったのに、この子は安定してる」
言われて、一翔はソラを見る。
揺れていた輪郭はもう安定していた。雲色の毛並みは細く柔らかく、脚先には無駄な震えがない。動きたそうにしてはいるが、さっきのような苛立ちは薄れていた。
ソラは見上げてきて、ぺし、と一翔の膝に前足を置いた。
「……なつかれてる」
「そう見える?」
「見える」
蒼依の返事は早い。
万恵が手帳をめくりながら補足した。
「仮にこの子が名無しだったとして、いま落ち着いてる理由は二つ考えられる。ひとつは、たまたま恐慌が収まっただけ。もうひとつは、本当に呼び名が通った」
「前者であってほしいわね」
「でも後者っぽい」
万恵は悪気なく言った。
蒼依が長く息を吐く。
その横顔を見て、一翔はこの宿の事情をまだ何も知らないのに、何となく想像できた。彼女は乱暴に見えて、収支も手入れも放っておけない性分なのだ。壁が壊れたら修理費が飛ぶ。怪しい男が落ちてきたら客商売に響く。なのに、名無しの小獣まで抱え込んだ。
放り出せるなら、最初からそうしている。
「……俺、出ていった方がいい?」
口をついて出たのは、半分本音だった。
この世界で右も左も分からないとはいえ、厄介者なのは間違いない。怪しい肩書き。壊れた壁。名無しの小獣。セットで宿に転がり込んで歓迎される理由がない。
だが蒼依は、即座に首を振らなかった。
先に、万恵がソラを見た。
「たぶん無理」
「何が」
「この子、名付けた本人から責任が切れると、不安定になることがある」
「責任?」
「言いっぱなしじゃ済まないってこと」
万恵はしゃがみ込み、ソラの顎を軽く撫でた。ソラは気持ちよさそうに目を細める。
「さっき食堂から裏口へ出そうとしたら、この子、輪郭がちょっと揺れたの。たぶん、あんたと離れるのを『見捨てられる』って受け取る段階にまだいる」
一翔は言葉を失った。
たまたま口から出た名前だった。目の前で斬られそうな獣へ、とっさに投げた短い言葉だった。それだけのはずなのに、相手にとっては「これで生きていい」と言われることに近かったのかもしれない。
そんな重さ、考えていなかった。
思わずソラを見ると、当の本人は何も知らない顔で前足を舐めていた。
蒼依が窓の外、壊れた二階を振り仰ぐ。
「直るまで二階は使えない。客室は詰め直し。壁板と梁の見積もり、あと三日はかかる」
ぶつぶつ計算してから、彼女は一翔へ視線を戻した。
「……あんた、物置横の空き部屋」
「え」
「行く場所ないんでしょ」
「まあ、ないけど」
「じゃあ、そこ。食事は働いた分だけ。壁壊した分も手伝ってもらう」
「俺が壊したわけじゃ」
蒼依の目が細まる。
一翔は口を閉じた。
万恵が楽しそうに言う。
「同じ朝に落ちてきたんだから、連帯責任でいいんじゃない?」
「雑」
「でも早い」
蒼依はさっさと決めたらしかった。戸棚から予備の布団を出し、寝台へ放る。
「変なことしたら窓から捨てる」
「せめて扉から出して」
言った瞬間、蒼依の口元が少しだけ動いた。笑ったのか、鼻であしらっただけか、その中間くらいだ。
一翔はそのわずかな変化に、変なところで救われた気がした。
完全に拒絶されているわけではない。
この宿は、壊れた壁の前でも、とりあえず今夜寝る場所を先に決める。
そういう場所らしい。
◇
昼前になると、蒼依は一翔を町へ連れ出した。
「監視よ」と本人は言ったが、半分は案内でもあった。
朝凪亭の前の通りは、宿場町らしく人の往来が絶えない。荷馬車の車輪が土を鳴らし、旅人が背負い袋を揺らして歩く。焼きたての平たいパンの匂い。鍛冶場の槌音。行商の売り声。その合間に、ときどき人々の会話へ混じるのは「名無し」という単語だった。
「あそこの井戸端、夜になると人影が増える」
「南の空き家、屋号が消えてから変な音がする」
「役場へ届けたけど、まだ順番待ちだってさ」
蒼依は通りを歩きながら、誰に説明するでもなく口を開いた。
「名無瀬では、大火のあとからこういうのが増えた。土地や建物や店の名前が薄い場所ほど、名無しが出やすい」
「名前が薄い?」
「呼ばれなくなる、記録から抜ける、看板が落ちる、昔の通称を覚えてる人がいなくなる。そういう積み重ね」
彼女は露店の軒先をよけながら続ける。
「夜になると、不安や噂が形を与える。だから怖がるほど面倒になる」
一翔は、町並みを見回した。
表面だけ見れば、よくある活気ある宿場町だ。けれど注意して見ると、ところどころに奇妙な空白があった。看板の外れた店。地図板の一部だけ削られた文字。人が歩くのに、誰も名前で呼ばない細い路地。
言葉の抜けた場所が、確かにある。
「役場は何してるんだ」
「帳面はきっちり見てる」
蒼依の返答は乾いていた。
「現場へ来るのは遅いけど」
その時だった。
向こうから、背の高い男が歩いてきた。日に焼けた外套。無駄のない装備。腰の短剣も荷物の括り方も、必要な分しか持たない人間のものだ。目立たないのに、視線が勝手に引かれる。
男は蒼依の前で足を止めた。
「宿で名無しを止めたのはお前か」
質問は一翔へ向いている。
一翔はとっさに胸を張った。
「そうとも言えるし、もっと正確に言えば――」
「うるさい」
一言で切られた。
蒼依が平然としているあたり、いつものことらしい。
男は一翔を無視して、足元のソラを見る。ソラは一瞬だけ背を低くしたが、唸らない。鼻先をひくひくさせるだけだ。
「仮名にしては定着が早い」
男の低い声に、蒼依が肩をすくめる。
「でしょ。だから面倒なのよ」
「組合に連れていけ」
「いまから?」
「今のうち」
話が早すぎる。だが蒼依も否定しなかった。
男は最後に一翔へ視線を戻した。
「耀登」
名乗ったのはそれだけだ。
名前を置いたあと、彼はもう用事が済んだみたいに踵を返した。
一翔は数歩遅れてから、蒼依へ小声で訊く。
「今の人、いつもあんな感じ?」
「必要なぶんだけ喋る」
「必要なぶん、少なくない?」
「でも外さない」
蒼依の言い方には、文句と信頼が半分ずつ混ざっていた。
◇
探索者組合は、木と石を継ぎ足して広げた頑丈な建物だった。
中では依頼札の張り替えや、荷の受け渡しや、簡単な治療が同時進行している。戦う者だけの場所ではなく、町の雑用をまとめる結節点らしい。壁際に並んだ木札の中には、「西水路の板交換」「暁荷場夜警補助」「名無し発生見回り」といった文字が見えた。
一翔が「暁荷場」の読みを目でなぞった時、横から蒼依が言った。
「いまはもう、そう呼ぶ人ほとんどいないけどね」
何か引っかかったが、訊く前に、組合の奥から年配の男が出てきた。
「蒼依。そいつか」
「そいつ」
蒼依は雑だった。
男はソラを見て、眉をひそめる。
「正式術式なしで安定……ねえ」
「だから見てもらいに来たの」
簡易検査はすぐ始まった。
石盤の上へソラを乗せ、組合の男が印具をかざす。正式名付けが済んだ存在なら、石盤の紋様が光るらしい。だが結果は、静かなままだった。
光らない。
それでもソラは揺れない。
石盤の上で退屈そうに欠伸をしただけだった。
周囲がざわつく。
「ありえん」
「名無しのまま安定してるのか?」
「いや、でも形は固まってるぞ」
「代官へ報告だ」
最後の言葉に、一翔の背筋が冷えた。
まだこの町の仕組みは分からない。だが役場という場所が、この空気で歓迎されないことだけは朝から何度も察している。そこへ、怪しい男と怪しい名付けを届け出る。たぶん良くない。
どう逃げるか、と頭が回りかけた時、蒼依が一歩前へ出た。
「こいつは今、うちの修理要員」
組合の男たちが目を瞬く。
蒼依は続けた。
「勝手に連れていかせない。うちの二階の壁、こいつが来た朝に吹き飛んだの。直るまで働かせる」
「因果が雑だな」
誰かが呟いた。
蒼依は平然としている。
「雑でも宿は回る。役場へ出すなら、まず壁の弁償先を決めてからにして」
呆れ混じりの笑いが漏れた。
一翔は言い返せず、ただ蒼依の横顔を見た。
庇われているのではない。彼女にとっては宿の都合だ。たぶん本当にそうだ。だが、都合のためだとしても、いま矢面へ立っているのは彼女だ。
その事実が、一翔の胸のどこかを妙に落ち着かなくさせた。
組合の空気が少しだけ緩んだ、その時。
外から、鐘が鳴った。
低く、重い、急ぎを告げる鐘だった。
組合の中の空気が一瞬で変わる。
耀登が壁の依頼札を一瞥し、短く言う。
「倉庫街」
蒼依の顔つきが変わった。
「また?」
「大きい」
それだけで十分だったらしい。組合の者たちが一斉に動き出す。武器。縄。松明。薬袋。
ソラが、びくりと肩を震わせた。
次の瞬間、扉の外から、誰かの叫びが飛び込んでくる。
「でかい名無しだ! 屋根より上だぞ!」
一翔は扉の向こうへ視線を向けた。
昼の光の向こう、町外れの空へ、曇った影がゆっくりと持ち上がっていくのが見えた。
倉庫の屋根より高い。
顔のない獣じみた影が、月でもないのに薄暗い輪郭を引きずって、立ち上がっていた。