テラーノベル
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『残響の港、静潔の街』
その街では、風が記憶を運んでくる。 海沿いの国道を走る車の走行音、防波堤に砕ける波の飛沫、そして、名前を呼ぶ誰かの声。 りこは、灰色の曇り空を見上げながら、深い溜息をついた。 二十三歳。地元の小さな印刷会社で働く彼女の日常は、色の抜けた古い写真のように単調だ。朝起きて、定時に出勤し、誰にでもできる事務作業をこなし、コンビニで買った代わり映えのしない夕食を食べて眠る。 かつて、この街のすべてが宝石のように輝いて見えたのは、隣に「彼」がいたからだろうか。
ふと、左の耳たぶに手が伸びる。 そこには、真珠の形をした安物のイヤリングが一つだけ揺れていた。 対になるはずのもう片方は、五年前の冬、あの凍えそうな駅のホームに置いてきた。正確には、溢れ出す涙を拭おうとした拍子に、どこかへ弾け飛んでしまったのだ。 「……馬鹿だよね。まだ持ってるなんて」
鏡に映る自分は、あの頃よりも少しだけ頬が痩せ、目元に隠しきれない諦めを纏っている。 五年。それは、熱烈な愛を冷ますには十分すぎる時間であり、同時に、消えない傷を化膿させるにも十分すぎる時間だった。
りこは、デスクの引き出しの奥に隠している、一通の古い封筒を取り出した。 中には、ボロボロになった建築雑誌の切り抜きが一枚。 そこには、若手建築家の旗手として紹介される「湊(みなと)」の姿があった。 都会の洗練されたビル群を背景に、真っ直ぐにレンズを見つめる彼の瞳は、かつて放課後の図書室で「君の港になりたい」と笑っていた少年とは、まるで別人のように冷たく、研ぎ澄まされていた。
「おめでとう、みなと。……あなたは、ちゃんと飛べたんだね」
独り言は、誰に届くこともなく、狭い部屋の空気に溶けて消えた。 あの日、彼に放った「他に好きな人がいる」という最低な嘘。 彼の翼を折らないために、自分の心に鍵をかけて海に沈めた、あの夜の決断。 その代償として手に入れたのは、彼が手にした栄光と、りこが抱え続ける一生分の孤独だった。
窓の外では、雨が降り始めていた。 この街の雨は、いつだって潮の匂いがする。 明日、その「彼」が、この街に帰ってくる。 プロジェクトの責任者として。 他人として。 あるいは、復讐者として。
りこは、片方だけのイヤリングをぎゅっと指で挟んだ。 痛いほどのその硬さが、今の彼女を支える唯一の体温だった。
物語の歯車が、五年の沈黙を破って、静かに、けれど逃れようのない音を立てて回り始める。 ——これは、嘘で愛を殺した女と、その嘘を盾に生き抜いた男の、あまりに遠回りな「再会」の記録。
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