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「…… 」
突然泣き出してしまった僕の頬をルスの小さな手が包んでくれる。そんな彼女の手首をぎゅっと掴むと、僕は離すまいと伝えるみたいに軽く力を込めた。
穏やかで心が落ち着き、もう一生このままでいたいと思う程、お互いの体温を分け合う優しい時間はしばらく続いた。が、ルスが「…… ご飯もね」と呟いた一言で残念ながら終わりを告げてしまった。
「ご飯も確かに大事だけど…… 。どれも美味しいし、初めて食べる物ばかりで本当に幸せだけど、もちろん!それだけじゃないよ」
僕が泣き出した理由をどう受け止めたのかはわからないが、的外れな考えである事は間違いなさそうだ。
「じゃあ掃除か。放っておいても勝手に部屋が綺麗になっていくんだ、便利だよなぁ」
「ひ、否定は、しませんっ」と、ルスが正直に断言する。
「だろうな」
意地の悪い声で言いながら、僕はルスの両手首を掴んでいた手から力を抜くと、彼女の肌を滑るように撫でながら手を移動させ、手の甲に己の掌を重ねた。簡単にへし折ってしまえそうな程に小さな手だ。
今まで、憑依対象者とここまでしっかり向き合った事などあっただろうか?
いいや…… 一度も無かったな。お互いまともに見向きもせず、相互利益の為だけの関係ばかりだった。なのにルスときたら、何に対しても多くを求めず、小さな幸せばかりを喜んで、身の内に秘めている膨大な魔力には見向きもしない。今までの憑依対象者の中にも変わり者は何人もいたが、ルスみたいな奴は初めてだ。そんな彼女が僕が傍に居てもいいと認めてくれた事実が嬉しくって堪らない。本性どころか本体も、全てが全て真っ黒で、他者の想像力に縋らないと肉体すら持てないような存在であるこの僕を隣に置く気でいるだなんて…… 。
(本当に、バカな子だな、君は)
いや…… 。本当にバカなのは、僕か。
段々と退路を完全に絶たれていく気配を肌に感じる。逃げるのはもう不可能に近い状態だろう。まぁ、もう僕にはルスから逃げる気など無いから何ら問題はないが。
「傍に居てくれて、こうやっていろんな話をして、寄り添って。『普通の幸せ』って、こういう事を言うのかなぁって思える時間がね、楽しいの。ワガママかもだけど、『ずっとこの時間が続けばいいのに』って思うし…… 」
ルスの瞳には映っていないみたいだが、彼女の発する言葉が呪文の様な姿になって、鎖が全身に巻き付いてくるみたいに僕の体を拘束していく。レアンですら、今の彼女から引き剥がし切れなかった“監獄の乙女”としての能力の残滓が、僕との契約によって、無尽蔵に使える魔力と絡み合ってまともに発動してしまっているのだろう。
「何ともまぁ、“夫婦らしい”模範回答ってやつだな」
「いやいや、本心だよ⁉︎」
わかっている。じゃないと、君の言葉が鎖みたいに巻き付いてくるはずがないのだから。だが、そんな状態になっている事はひた隠し、僕は話を続けた。
「じゃあさ、いっそのこと、僕らはもう本当の夫婦にならないか?」
きょとん顔で、「…… 本当の、夫婦?」とルスが口にする。
「あぁ。だってさ、どうせ僕らは既に契約で離れられない関係だろう?周囲にはもう『夫婦だ』と公言している訳だし、変わるのはお互いの内情だけだ」
(断られるかもしれない。いいや、さっきみたいに、受け入れてくれるかも…… )
不安と、少しの期待が胸の中で入り混じる。一生を左右する決断を他人任せにする恐怖がじわじわと体を蝕んでいく様な気がした。
「で、ても…… ワタシ…… 」
こちらを見上げるルスの瞳が揺れている。断る理由でも探しているのか、まとわりつく言葉の鎖がボロボロと崩れて形状を失い始めた。その事実に恐怖を感じる。『僕は、ルスに求められてはいないのか?』という考えが頭の中に浮かび、『そんなの、嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ——』とくるったみたいに同じ言葉が繰り返される。
「——でも?」
だけど急かす真似はせず、でも答えを求めて穏やかな声で問う。頭の中は僕の本性みたいに真っ黒な執着で埋め尽くされているのに、必死に隠す事ばかりが上手くなっていく。
「あ、あのね、ワタシ…… 恋とか、愛とか、その…… 家族愛すら、よくわからない、の。そんな自分がスキアと『本当の夫婦』になんてなれるのかって、思って…… 」
視線だけ俯かせ、ぽつぽつと本心を口にしてくれる。その言葉を聞き、『そんな事か』と思うとちょっと嬉しくなり、僕は「——ははっ」と短く笑った。
「そんなもん、僕だって知らないよ。僕は、親だなんだって存在がいる様な生まれ方ですらなかったしね。…… 他者に取り憑かねば肉体を得る事もままならない僕だ。真っ当な生き方もしてきていないから、“恋”だ“愛”だなんて感情を学ぶ機会なんか全然無かった。でも、だからこそ、これから一緒に学んでいけばいいんじゃないか?最初っから完璧な夫婦なんてもんも存在しないんだし、『わからない』って全部から逃げたり、気負ったりする必要はないんじゃないかな。知らない者同士、一から学んでいけばいいんだよ」
自ら進んで檻の中に歩いて行くみたいな発言が口をついて出る。だけど後悔なんか全く感じられない。
(あと一押しすれば、ルスが僕を、その身のうちに堕としてくれるかもしれない)
そう思うと、むしろ清々しい気分ですらあった。
「一緒に?…… 一から?」
ルスが、甘言に誘惑されている子供みたいな顔をする。
握ったままになっていたルスの手を口元まで引っ張り上げ、「あぁ」と短く答え、言葉を続けた。
「共に学び、知り、成長していくなんて、いかにも『夫婦』って感じじゃないか?」
頭の中の考えなんか一切見せぬままニッと笑う。ルスはしばらくきょとん顔をしていたが、次第に顔を崩して可愛らしい笑顔を返してくれた。だからか、形状を失い続けていた鎖が再びその姿を表し、僕の体をがんじがらめにしていく。
「そうだね。『一緒に』とか、すごく『夫婦っぽい』と思う」と言い、ルスが『うん』と頷く。
「じゃあ、僕と結婚してくれるか?」
「はい。——喜んで」
お互いに舞台の芝居じみた声で言い、そんな彼女の手の甲へ口付けを贈る。それを合図としたみたいに耳元で『ガチャリ』と鍵でもかかるみたいな音がハッキリと聞こえた。きっとこれは僕を完全に捕えた音だ。その音が聞こえたと同時に言葉の鎖は目視出来なくなったが、今でもしっかりと拘束し続け、お互いの根底部分が一体と化す。これでもう僕はルスの体から離れる事が出来なくなった。だけど僕は、逆に考えてみる事にした。
これで一生、ルスは僕から離れられないのだ、と。
ルスの能力である“監獄の乙女”は体感的に一人分しか閉じ込めてはおけない。そもそも僕の為にと創られた存在であるのだから当然か。
僕の為に創られ、僕をその身に閉じ込め続ける君に、一生取り憑き続けていける幸せを噛み締めながら僕は、ルスの唇に自らの唇を重ねたのだった。
【完結】