テラーノベル
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夜のキスから数日。遥は、日下部の顔を見ることができなくなっていた。
あのとき、無理やりではなかった。
むしろ――自分の方から誘っていた気がする。
「抱け」と言えない代わりに、「口づけ」で確かめようとした。
その結果、日下部は応えてしまった。
そして遥は、またひとつ「壊した」と思った。
学校で顔を合わせても、遥は視線を逸らした。
廊下ですれ違うたびに胸がざわつき、口の中に鉄の味が広がる。
日下部がこちらに声をかけても、短く答えるだけ。
それ以上、言葉を繋げることができなかった。
「俺が望んだくせに」
「利用したのは俺の方なのに」
頭の中で何度も繰り返しながら、遥は机に突っ伏した。
眠れるわけもない。
ただ目を閉じれば、日下部の温度が脳裏に焼きついて離れなかった。
家に帰れば、待っているのは沈黙の檻。
壁にかけられた時計の針の音が、やけに大きい。
晃司や颯馬たちの影はそこにはなくても、記憶の中から離れてくれなかった。
――優しくされて、信じて、結局は裏切られる。
――守るなんて言葉は、どうせ嘘だ。
過去の声が耳にこびりついていた。
思い出したくもない光景が、ふいに蘇る。
「おまえなんかに価値はない」
「言うとおりにしてればいいんだ」
あの頃から変わらない。
日下部の「おまえを選ぶ」という言葉すら、信じたくても信じられなかった。
信じようとすればするほど、過去の声がそれを嘲笑う。
机の引き出しに入れていたカッターを取り出す。
刃を出し、腕にあて、ためらう。
「どうせおれなんか」
その言葉が喉までせり上がる。
けれど――日下部の顔が浮かんで、手を止めた。
あの時、自分の頬に触れた大きな手。
あんなふうに触れられたことなんて、なかった。
だから余計に、苦しかった。
「……バカだろ、おれ」
声にならない声を吐き、遥はカッターを机に投げた。
乾いた音が響き、静けさの中に吸い込まれていった。
数日が過ぎても、遥は日下部に近づけなかった。
「普通」をくれる人間が目の前にいる。
手を伸ばせばいい。
なのに、その「普通」を受け取った瞬間、過去すべてが嘘になる気がしてならなかった。
「愛されてなかった」
「捨てられた」
その事実すら、消えてしまうようで。
だから、拒む。
だから、逃げる。
自分で自分を孤独に追いやっていることは、わかっていた。
それでも――そうするしかなかった。
放課後、帰り道。
日下部の姿が前方に見えた。
立ち止まり、こちらを待っている。
遥は足を止めた。
その場から動けなくなった。
「おれが行ったら、また……」
声にならない声が喉の奥でかすれた。
ほんの数日前、口づけただけでこんなにも壊れる。
じゃあ次はどうなる?
日下部は、どこまで抱え込んで、どこで折れる?
遥には想像できなかった。
いや、想像したくなかった。
ただ一歩も動けず、息だけが荒くなっていく。
背中を押すものは何もなく、前に進む勇気もなかった。
――そしてその夜、遥はついに日下部と再び衝突することになる。
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