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第8話「記憶が腐るまえに」
登場人物:ナグレ=エンブ(濁属性・記録管理担当・教師)
ナグレ=エンブは、地味な男だった。
波域教師でありながら講義にはほとんど立たず、校内地下の記録室で、日々“変質ログ”の整理をしている。
くすんだ灰茶のコート、巻貝の殻を模した飾りボタン、左手の爪先にはいつも染み。
髪は長くて、重力に逆らわず肩の方へ垂れていた。
瞳の奥だけが、澄んでいない“濁り”を持つ教師。
記録室は、ソルソのエネルギーで動く自動アーカイブ。
生徒一人ひとりの“変質の兆し”と“波域の履歴”、波食・共鳴失敗・深層試験ログまで──
それは“未来の判断材料”であると同時に、“過去の負荷”でもあった。
エンブは、自身の変質を10年前に終えていた。
だが、“濁属性”の変質は、一度だけでは終わらない。
“思考や感情が蓄積しすぎると、再び濁り出す”。
それは教師であっても例外ではない。
今日もまた、1件の記録が届いた。
「海藻拒否・感情変質未遂・共鳴反応なし──クク=ミール」
封を切らずに保管することもできたが、エンブは手に取り、自分のノートと照らし合わせた。
「……ああ、まただ」
彼は、“誰かの記憶を思い出すたび、自分の中の記憶が腐っていく”という症状を抱えていた。
濁属性は、「記録する」ことと「腐らせる」ことが、等価に繋がっている。
記憶とは、保存の形をして、腐敗する。
それがわかっていても、エンブは記録をやめなかった。
深夜。
記録室に海音が入り込む。
海水ではない、“音だけの潮”。
共鳴し損ねた感情が、夜のうちに部屋に流れ込んでくる。
それを感じながら、エンブは机の下に置いた透明の瓶をひとつ、開けた。
中には、名前のない“思い出のかけら”。
過去に退学した生徒。変質に失敗して、戻ってこなかった記録。
瓶を開けた瞬間、かすかに腐った磯のにおいがする。
エンブは、そっと自分のノートに一言だけ書く。
「記録は、残した。腐るまえに。
彼らがいなくなるまえに」
濁属性の教師は、感情を記録する者ではない。
**“記録と腐敗の間で、ただ座っている者”**だ。
それでも彼は、今日も記録室の扉を閉める。
明日また、誰かの未完成な感情が届くと知っているから。
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