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野茂れわる
32
河乃或葉
16
探すのをやめた時、見つかる事はよくある話しらしい。
吾輩のお気に入りのネズミの玩具などよい例である。
夢中になって遊んでいるうちに、弾みで何処かに飛んでいったかと思えば、興味がなくなった頃に家具の下の隙間から埃にまみれて現れる。
また遊べばポーンと何処かに飛んでいき、探すのをやめた頃に何処からか戻ってくるのだ。
吾輩の主人であるこの冴えない青年レンも、よく物をなくす。
時にそれはイヤホンであったり、買い物メモだったり、自宅の鍵のような大切な物だったりする。
だが、最近のレンの「失くし物」は、少しばかり様子が違っていた。
失くすのではない。
正確には、失くしたものが「戻ってくる」のだ。
それも、部屋の真ん中にある、彼が祖父から譲り受けたという古い文机の、一番下の引き出しから。
その引き出しは、レンがこのアパートに引っ越してきた時から、経年劣化で木が歪んでしまったのか、どうやってもビクとも動かない「開かずの引き出し」だった。
「おかしいなぁ。昨日、机の上から転がり落ちたお気に入りの消しゴムが、どうしても見つからなかったのに。」
レンは今朝、その開かない引き出しのわずかな隙間に指を突っ込み、器用に何かを引っ張り出した。
それは、彼が血眼になって探していた、少し角の丸くなった白い消しゴムだった。
「なんでここに入ってるんだ? 昨日は確かに、この引き出しは開かなかったし、今だって開かないのに。……まさか、四次元ポケットか何かに繋がっているんじゃ。」
売れないミステリー作家というのは、どうしてこうも非科学的なオカルトに結びつけたがるのか。
吾輩は彼の足元で「にゃあ」と呆れたように鳴いた。
四次元ポケットがあるなら、吾輩は今すぐそこから最高級のカリカリを無限に取り出している。
しかし、不思議なことはそれだけでは終わらなかった。
次の日には失くしたはずの特注の万年筆のキャップが、その次の日にはプロットを書き留めた小さな付箋が、夜が明けると決まって、その開かない引き出しの数ミリの隙間から、ひょっこりと顔を覗かせているのだ。
夜中に誰かが部屋に忍び込んで、引き出しの中に物を隠しているのだろうか。
いや、吾輩の鋭い耳と鼻が、不審者の侵入を見落とすはずがない。
夜中に聞こえるのは、レンの規則正しい寝息と、時折その引き出しの奥から聞こえる「コト、コト」という、これまた微かな木の擦れる音だけだった。
「まさか、僕の部屋に座敷童子でもいるのかな。それとも、僕が知らないうちに忘却の妖精に気に入られたのかも……」
締め切り間近のレンはパソコンに向かいながら、そんな的外れなファンタジーを呟いている。
放っておけば、彼は次の新作に「文房具を盗む妖精の殺人事件」なんていう、売れそうにない突飛な物語を書き始めてしまうだろう。
吾輩はフンと鼻を鳴らし、レンが仮眠をとるためにベッドに潜り込んだのを見計らって、調査を開始した。
静まり返った四畳半の部屋。
吾輩は音もなく床に降り立ち、古い文机の前に座った。
問題の一番下の引き出し。確かに、人間の太い指では絶対に中を弄ることなどできない、わずか五ミリほどの隙間があるだけだ。
吾輩は、その隙間に顔を近づけ、片目を凝らして中を覗き込んだ。
月明かりが部屋に差し込み、引き出しの奥を薄暗く照らす。
そこにあったのは、四次元の世界でも、妖精の国でもなかった。
引き出しの奥の「構造」そのものだった。
古い木製の文机は、長年の乾燥と湿気によって、内部の仕切り板が大きく歪んでいた。そのため、一番下の引き出しの天井にあたる部分に、中段の引き出しの裏側へと通じる「隠れた傾斜」が出来上がっていたのだ。
つまり、こういうことだ。
レンが机の上で物を落としたり、中段の引き出しを勢いよく閉めたりした際、転がった小物がその「歪んだ隙間」へと滑り落ちる。
小物は内部の傾斜を滑り台のように滑り落ち、最終的に、一番下の「開かずの引き出し」の手前へと滑り込んでくる。
夜中に聞こえていた「コト、コト」という音の正体は、レンが寝返りを打って部屋の床がわずかに振動した拍子に、隙間に引っかかっていた小物が、引き出しの手前へと落ちてくる音だったのだ。
「なるほど」と吾輩は納得した。
怪奇現象でも何でもない、ただの古い家具の気まぐれな物理法則である。
しかし、まだ一つだけ謎が残っていた。
今朝、レンが「失くした」と言って大騒ぎしていた、大事な締め切りのスケジュールが書かれたメモ帳。
それはいくら傾斜があっても、自然に滑り落ちるには少し無理がありそうだ。
吾輩はもう一度、引き出しの隙間に前足を深く差し込んでみた。
猫の関節は柔らかい。
人間の指では届かない奥まで、すんなりと入り込む。
すると、吾輩の肉球に、カサリと紙の感触が触れた。
それと同時に、何か小さくて、温かくて、モフモフしたものが、吾輩の肉球に触れた。
「……ッ!」
吾輩は思わず前足を引いた。
次の瞬間、引き出しの隙間から、小さな、本当に小さな、丸い生き物がひょっこりと顔を出した。
それは、一匹の小さな野ネズミだった。
ネズミは吾輩の姿を見て、小さく身震いをした。
吾輩は猫だ。
本来なら、ここで素早く前足を突き出し、彼を捕らえるのが野生の証明というものだろう。
だが、吾輩はそのネズミの健気な目に免じて、少し話を聞いてみることにした。
ネズミは小さな声で、命乞いをするように鳴いた。
文字は読めなくとも、動物同士の意思疎通は容易い。
彼の言い分はこうだった。
この古い文机の裏側に巣を作って暮らしていること。
この部屋の住人レンが、いつも夜遅くまで頭を抱えて苦しんでいるのを見守っていたこと。
そして、レンが机の上で物を失くしては「締切が、原稿が」と泣きそうになっているのを見て、机の隙間に落ちていた文房具やメモを、小さな体で一生懸命に押し上げて、あの引き出しの隙間からレンが見つけやすいように届けていたのだという。
「彼がいつも、美味しいパンのクズを机の下に落としてくれるから、そのお返しなんだ。」
ネズミはそう言って、誇らしげに髭を揺らした。
なるほど、レンのズボラな食べこぼしが、巡り巡ってこのような「小さな奇跡」を生んでいたわけだ。
吾輩は、ネズミの鼻先にそっと自分の鼻を近づけた。
挨拶の代わりだ。
「今回は見逃してやる。だが、吾輩の目の前でチョロチョロするなよ」
そう無言の圧力をかけると、ネズミはペコリと頭を下げて、引き出しの奥の暗闇へと帰っていった。
吾輩は、ネズミが手前に運んできていたレンのメモ用紙を、前足の爪で器用に引っ掛け、引き出しの隙間から床へと引っ張り出した。
これで明日の朝、レンはすぐにこれを見つけることができるだろう。
翌朝。
「うわあ! スケジュールメモがこんなところに落ちてる!」
起きてきたレンは、床のメモを見つけて歓声をあげた。
彼はそれを大事そうに抱きしめると、ベッドの上で欠伸をしていた吾輩の元へ飛び込んできて、思い切りハグをしてきた。
「よかった、これで編集者に怒られずに済むよ! やっぱりこの部屋には、僕を助けてくれる優しい座敷童子がいるんだ。……いや、もしかして、お前が夜中に見つけてくれたのかな?」
レンは吾輩の顔を覗き込み、嬉しそうに目を細めた。
吾輩は「にゃあ」とだけ鳴き、ぷいと顔を背けた。
座敷童子の正体が、彼がいつも嫌っているネズミであることは、彼の作家としての夢を壊さないためにも、秘密にしておくのが大人の優しさというものだ。
「よし、お礼に今日は、いつもよりちょっといいマグロの缶詰を開けちゃうぞ!」
レンは上機嫌で台所へと向かっていった。
机の下には、またしても彼が朝食に食べた食パンのクズが、いくつか転がっている。今夜もまた、あの小さな同居人が、レンのためにひと仕事してくれることだろう。
吾輩は窓辺の陽だまりで、心地よく目を細めた。
文字は読めなくとも、小さな部屋の隠し事を丸ごと包み込んでやるくらい、猫の手にかかれば造作もないことなのである。
【開かずの机に届くもの 】
コメント
1件
あらためて読んだけど、この話めっちゃ好きだよ〜!!😭💕 猫ちゃんの視点で語られる日常ミステリー、しかも最終的に“ネズミの恩返し”ってのがもう…優しさに包まれた気持ちになったよ。 「開かずの引き出し」の謎が物理的なトリックだったのも納得感あって、でもそこに温かい気持ちが隠れてるのが七海さんらしいなって思った! 座敷童子だと思ってたのがネズミっていうオチも可愛すぎるし、猫が「大人の優しさ」で秘密を守るところにじんわり来た…🥺 次話も絶対読むよ〜!