テラーノベル
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時間の使い方とは、それぞれ実に様々である。
のんびり昼寝に費やす一日もあれば、のんびり日向ぼっこに使う一日だってある。
一見ムダに見えるかもしれないが、日差しの暖かい窓際で、こうしてウトウト過ごす時間の使い方は、吾輩にとっては大変有意義で正しい時間の使い方だ。
そして、のんびりしすぎた代償はいつか我が身に降りかかるのもまた然り。
ここに一人、先週を有意義な趣味の時間として消費した青年が、目前に迫る締め切りに涙目で悶絶していた。
「終わらない……。今夜中の提出なのに、あと十ページも残ってる。いっそこの部屋の時が止まってくれればいいのに…。」
吾輩の主人である売れないミステリー作家のレンは、パソコンのキーボードを親の仇のように叩きながら、情けない声をあげていた。
まったくの自業自得である。
先週、話題の新作ゲームにかまけて原稿を放置していたのを、吾輩はちゃんと知っている。
しかし、そんなレンが、ふと部屋の壁に掛けられた古ぼけた丸時計を見上げて、奇妙な声を漏らした。
「……あれ? まだこんな時間?」
外はすっかり暗く、体感的にはとうに22時を過ぎたのではないかというのに、壁の時計はまだ19時を指していた。
レンは狂喜乱舞し、再び凄まじい勢いでキーボードを叩き始める。
気持ちの余裕からか、少しやる気が出たようだ。
やる気が出たのは大いに結構だが、やはりこの時計はおかしい。
文字の読めない吾輩だが、さすがに時間の概念くらいはある。
神様が売れない作家ひとりのために世界の法則をねじ曲げるほど暇ではないことも容易に想像がつく。
しかし不思議なことに、この「壁掛け時計が遅れる現象」は、今回が初めてではなかった。
レンが締め切りに追われ、徹夜一歩手前の極限状態に陥っている夜に限って、あの古い丸時計はなぜか数時間ほど現実の時間から遅れをとるのだ。
「にゃあ」
吾輩は窓際から床に降り立ち、壁掛け時計を見上げた。
時計の位置は、レンの仕事机のちょうど真後ろ、少し高い壁の上だ。
いくらなんでも、レンが自分で時間を巻き戻すような細工をしている様子はない。
いったいどうしてこの時計は、今ゆっくりと時を刻んでいるのか。
夜が深まるにつれ、レンの集中力は研ぎ澄まされていった。
「時間が余分にある」という謎の安心感が、彼の縮こまった脳味噌に良い作用をもたらしているらしい。
しかし、外の静けさが深夜を迎えた頃、吾輩の鋭い耳が、ベランダの窓の外から微かな音を捉えた。
野茂れわる
32
河乃或葉
16
「トントン」
それは、ガラスを指の腹で優しく叩くような音だった。
レンの部屋はアパートの2階 。
不審者か、あるいは本物の妖精か。
吾輩は気配を消して、ゆっくりとカーテンの隙間から外を覗き込んだ。
月明かりに照らされていたのは、お化けでも時間の神様でもなかった。
見覚えのある、仕立ての良いスーツを着た眼鏡の男性――レンの担当編集者である、ハラダ氏だった。
ハラダ氏はベランダの狭い足場に器用にしゃがみ込み、静かに窓を開けた。
レンは換気のために、いつもベランダの窓を数センチだけ開けておく癖があるのだ。ハラダ氏は音を立てずに部屋へと忍び込むと、机に向かって猛烈に執筆しているレンの背中を、じっと見つめた。
レンはヘッドホンで音楽を聴きながら集中しているため、背後の気配に全く気づいていない。
ハラダ氏は、窓辺にいる吾輩と目が合うと、人差し指を口に当てて「しーっ」とジェスチャーをした。
吾輩はフンと鼻を鳴らし、彼の出方を見ることにした。
ハラダ氏は、抜き足差し足でレンの真後ろへと近づいた。そして、壁掛け時計の前に立つと、そっと手を伸ばし、時計の裏側にある時間を調節するつまみを、指先で静かに、ゆっくりと「反時計回り」に回し始めたのだ。
カチ、カチ、カチ……。
文字盤の長い針が、現実の時間からさらに一時間、過去へと巻き戻される。
なるほど、と吾輩はすべてを理解した。
「時間の歪み」を作り出していた、現実的な訪問者の正体は彼だったわけだ。
ハラダ氏は、レンの執筆ペースと残りページ数をプロの目で計算し、「あとこれくらい時間があれば終わる」という絶妙な猶予を、物理的に時計の針を戻すことでレンに与えていたのだ。
「時間がまだある」と思い込ませてレンのポテンシャルを最大限に引き出すという、担当編集者による、極めて実践的で、かつ涙ぐましい『心理的トリック』である。
ベランダから忍び込むスリルを犯してまで作家に原稿を書かせようとする執筆への執念には、猫である吾輩も少しばかり感服せざるを得ない。
ハラダ氏は、時計の針を戻し終えると、満足そうに頷いた。そして再び音もなくベランダへと這い出し、夜の闇へと消えていった。
おそらく、近くのファミレスでレンからの「できました!」という連絡を待つ算段なのだろう。
吾輩は、机の上のパンくずを狙ってひょっこり顔を出した机の裏の小さな同居人に、「今は邪魔をするな」と目配せで合図を送り、レンの足元へと歩み寄った。
「……できた! 終わったぞ! 奇跡だ、まだ夜の11時だよ!」
時計の針では夜の11時だが、実際は深夜の2時頃、レンはついに歓喜の声をあげて立ち上がった。
彼は仕上がった原稿をすぐにハラダ氏へメールで送信すると、ベッドの上で丸くなっていた吾輩の元へ突っ込んできて、手荒いハグをしてきた。
「見てくれよ! 時間の神様が味方してくれたおかげで、最高の結末が書けた! 僕はやっぱり、守られているのかもしれないなぁ」
レンは安堵の表情で、そのままベッドへと倒れ込み、数秒でいびきをかき始めた。よほど疲れていたのだろう。
吾輩はレンの腕から抜け出すと、すやすやと眠る彼の寝顔を見つめた。
時間の神様の正体が、ベランダから不法侵入してきた眼鏡の担当編集者であることは、彼の純粋なモチベーションを保つためにも、墓場まで持っていくのが飼い猫としての礼儀というものだ。
昼間にたっぷり日向ぼっこを楽しんだ吾輩には、これから果たすべき夜の任務がある。
まずは、締め切りを乗り越えた部屋の見廻りだ。机の下に散らかった消しゴムのカスを片付け、開かずの引き出しのネズミに夜の挨拶を交わす。
そして、レンの枕元に寄り添い、冷えないようにそのふんわりとした毛並みで彼の首元を温めてやるのだ。
吾輩は小さく喉をゴロゴロと鳴らした。
文字は読めなくとも、主人のために夜の帳をそっと整えてやるくらい、猫の夜業にかかれば造作もないことなのである。
【修正された午前二時】
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