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又亭は今日も、変わらぬやわらかい午後の空気に包まれていた。
その日、一番風がやさしく吹いたころ、一人の少女が店の引き戸をそっと開けた。
音もなく、だが確かに――そこに風が通った。
「こんにちは、マスター」
少女の名は、澪(みお)。
彼女は幼いころから、ゆっくりと視力を失っていった。
今はもう、光の輪郭さえ掴めない。
だが彼女にとって、猫又亭は特別な場所だった。
炊きたての米の匂い。煎れたての茶葉の香り。
木の床を踏む音、窓の外をすり抜ける風、風鈴の微かな調べ。
そして、何よりも――この空気。
目が見えないからこそ、彼女は“世界を聞いて、嗅いで、触れて”生きていた。
ある日のこと。
澪の前に、ひとりの見知らぬ客が座った。
白い長髪に、淡い紫の瞳。
その姿はあまりに整っていて、人間とは思えなかった。
その妖――**朧(おぼろ)**は、ぽつりと言った。
「一日だけ、目を戻してあげようか。
ただし……その代わりに、ひとつ記憶が失われる。
君が何を忘れるかは、誰にも分からない」
マスターは止めなかった。
ただ静かに、茶を淹れ、少女の背中を見守っていた。
澪は迷わなかった。
答えは、ずっと前から決まっていたのだ。
「……見たい景色が、あるんです。
目に、焼きつけておきたいものが、ここにはあるから」
その夜、朧は彼女の瞼にそっと指をあてた。
「明日の朝、目覚めたとき、君は“見る”ことができる。
でも、夜が来たら――何か一つが、君の中から消える」
朝。
澪が目を開けると、世界が色に満ちていた。
初めて見る猫又亭は、木漏れ日と影が重なった、優しい色彩の空間だった。
マスターは静かに笑っていた。彼の後ろに並ぶ茶瓶、棚の本、磨かれた机。
全てが、彼女の想像よりもずっとあたたかく、柔らかな世界だった。
外に出て、空を見上げた。
雲が流れ、陽が降り注ぎ、風が白い花を揺らしていた。
「……こんな世界だったんだ」
涙が止まらなかった。
けれど、夜が近づくにつれ、心がざわつく。
誰を忘れるのか。
そして、陽が沈む少し前。
マスターが、静かに声をかけた。
「澪さん。お茶を、どうぞ」
その時。
澪は気づいた。
――この声を、知らない。
――この匂いを、覚えていない。
――この人を……私は。
マスターの顔を見つめる。
でも、心が何も語ってくれない。
「あの……あなたは……?」
静かに、マスターは微笑むだけだった。
彼女が泣くことも、責めることもなかった。
そして紬は、再び目を閉じた。
その翌日から、澪はまた目の見えない日常を生きていた。
けれど、不思議と彼女は猫又亭を訪れ続けた。
“理由は分からないけれど、ここに来たくなる”のだと言って。
マスターは、いつもと変わらぬ微笑で彼女を迎え入れる。
彼女が忘れてしまった“あの日の彼”を、何も言わずに、ただ静かに。
そして、時折紬はこう呟く。
「――なぜだろう。見たことのない世界が、心に浮かぶんです。
きっと、どこかで“光を見た”気がして」
その言葉を聞いて、マスターはそっと茶を差し出す。
「その光は、今も君の中にあるんですよ。忘れてしまっても、確かに」
猫又亭には今日も、やさしい光が降っていた。