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❖白夜霜(びゃくやそう)
「……動いてる。死んでるのに、まだ……」
郵便箱の中には、凍った昆虫のような何かがいた。
透明な殻に包まれて、微かに触角だけを揺らしている。
気温は−17℃。雪ではなく、氷の粒が空から音もなく降っていた。
駅名は白夜霜(びゃくやそう)。
ホームを出た瞬間、そこはまるで世界そのものが冷凍されたような景色だった。
見渡すかぎりの銀世界。木々の葉はすべて霜に閉ざされ、
建物の屋根には氷が突き刺さったように伸びている。
空は深い灰色。雲の切れ間もない。
昼と夜の区別がないまま、光だけが一定に漂っていた。
立っているのは、柴崎 理玖(しばさき・りく)、26歳。
雪に不釣り合いな黒いスーツに、白のシャツ。
コートはなく、代わりにくたびれたマフラーを何重にも巻いていた。
髪は短めのダークブラウンで、耳が真っ赤になるほど冷え切っている。
理玖は黙って歩く。
一歩ごとに氷が砕ける音が響き、そのたびに彼は何かを思い出しかけて、やめる。
その手には、凍った封筒が握られていた。
道の先に、ぽつんと小さな集配所があった。
だが看板には“白夜郵便”としか書かれていない。
外にあるポストの蓋を開けると、中は一面の霜に覆われた手紙でいっぱいだった。
どれも宛名がない。
そして、その一番下に、
“動いている郵便物”があった。
小さな透明のカプセルに包まれたそれは、
確かに虫のようだが、目は人間に近く、触角には文字のような模様が浮かんでいた。
「お届け物ですか?」
背後から声がした。
振り返ると、顔全体に凍傷のような斑点がある、配達員のような影が立っていた。
灰色の制服に“BY”の刺繍、口元だけが異様に黒ずんでいる。
「こちらの品は、“返送不可能”となっております。
届けたいなら、記憶と引き換えです」
「……どの記憶?」
「“誰にこの手紙を出したのか”という記憶。
思い出さなければ、投函はできません」
理玖は凍った封筒を見下ろした。
宛名は滲み、筆跡も読めない。けれど、自分が書いたものなのはわかる。
ただ、誰に宛てたのか、思い出せない。
しばらく沈黙が続いた。
そして、彼は郵便箱の蓋を閉めた。
「もう、届けなくていい」
理玖がその場を離れたとき、空から音を立てて氷が割れた。
一筋の光が、その町をわずかに照らす。
そして、郵便箱の中の虫のようなものは、
静かに動きを止めた。
南新宿駅に戻ったとき、彼のポケットには何もなかった。
ただ、左手の人差し指にだけ、銀のインクで「To:」の文字が浮かんでいた。