❖水軸井(すいじくい)
「……地面の中から、話し声がする」
最初は、水の音だと思っていた。
チョロチョロ、ザバザバ、じわりじわり……。
でも、それがよく聞くと“会話”に聞こえると気づいた瞬間、背中に汗が走った。
駅名は水軸井(すいじくい)。
地上に出ると、そこは沈んだ井戸町のような場所だった。
家々はすべて傾いており、地盤そのものが水を含んで柔らかくなっている。
道路には小さな井戸の蓋のようなマンホールが点々と並び、
どこに立っても、地下から“水音”が響いてくる。
その町に足を踏み入れたのは、
川瀬 宗一(かわせ・そういち)、37歳のフリーライター。
無精ひげに無地のTシャツ、肩のほころびたカーキ色のジャケット。
黒いバックパックを背負い、左耳には赤いインナーイヤホンをひとつだけ差している。
彼はここを「都市伝説調査」のつもりで訪れた。
だがスマホのバッテリーはゼロ、マイクも反応せず、音声記録が一切できない。
「……これだけ静かなのに、水の音だけは止まらないんだな」
宗一は路地に入ると、小さな社(やしろ)のような建物を見つけた。
社の足元には深く開いた井戸の口があり、その中から、明確な“声”が聞こえてくる。
「やめとけ」 「そっちを選んだら、戻れないぞ」 「あんた、前にもここに来たろ?」
「……前にも?」
誰に言われたのかもわからない。だが、その言葉には**“懐かしさ”のような圧”**があった。
そのとき、背後で何かが“バシャ”と跳ねた。
振り返ると、地面が一部だけ陥没しており、足元のコンクリートが水面のように波打っていた。
宗一は、そこに人影のようなものが映っているのを見た。
だがそれは“現在の自分”ではなく、
5年前、自殺未遂をした時の自分だった。
やせこけて、目に光がなく、
同じように井戸の前で、何かを見ていた。
「……俺、ここ、来たことあるのか?」
耳元で風のように声がした。
「思い出したら、どっちかを選べ」 「“生きる”か、“見なかったことにする”か」
彼は静かにしゃがみ込んだ。
井戸の中に映るのは、**“もしも死なずに選び直していた人生”**の断片。
別の家族、別の友人、別の町、別の未来。
彼は、そっと目を閉じた。
次に目を開けたとき、彼は南新宿駅の階段に腰を下ろしていた。
左耳のイヤホンが消えていた。
代わりに、手のひらに小さな紙切れが残っていた。
そこにはこう書かれていた。
「水に流すのも、生きるってことだよ」
宗一はその言葉をじっと見つめ、
深く、深く息を吐いた。
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