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第10話:星の下で名を呼べば
星は、願いではない。
星は、名前の眠る場所だと、天球では教えられている。
——星の名を呼べば、声が届く。
それは記録ではなく、風に乗せる儀式だった。
空北端の浮遊都市《ヴァルレム》では今夜、
年に一度の名揺(みなゆ)祭が開かれる。
名を失った者、名を与えたい者、名を封じたい者が、
それぞれに星を選び、空に向かって名を呼ぶ。
—
この儀式に参加する少女の名はノーア・リムレア。
13歳、宙にほどけるような水銀色の髪。
瞳は白と薄紫のあいだを揺らぎ、
《フロートル社》が提供する「感情音調布《エミルスカーフ》」を肩に巻く。
感情に反応して音を発するこの布は、
浮力と感情のバランスを可視化する、最新の社交用礼装だった。
ノーアのスカーフは、沈んでいた。
彼女はまだ、「自分の名を呼ばれたことがない」。
記録にはある。泡にも残っている。
けれど誰も、その名を声に出してくれたことはなかった。
名は呼ばれて、ようやく“届く”。
ヴァルレムには、浮く星々を映す巨大なレンズがあった。
《ネフリオ社製:星音反射式観測球》──泡に似た素材の中に、
風に揺れる星の気配が反射される。
儀式では、泡をひとつ選び、そこに名を吹き込む。
泡が星に届けば、名もまた空に浮かぶという。
—
「あなたの声が、風に届きますように」
そう唱えて、ノーアは泡に名を吹き込む。
「ソイル・ヴァリト」
それは、かつて海の夢を語った少年の名だった。
記録上、存在が不確かなその名を、
ノーアだけが、泡の中で覚えていた。
泡は上昇し、星の手前で止まった。
星は、名を受け入れるか、拒むかを選ぶ。
拒まれれば、泡は沈み、泡主の浮力もまた、少し減る。
それは、「不届きな祈り」として忌避される文化だった。
—
だがその星は、泡に色を返した。
風がまっすぐ流れ、泡が弾け、
音が落ちてきた。
—
「……ノーア?」
風の中で、確かに声がした。
周囲の者たちは「星声障害だ」と言った。
記録の過剰集中で、音が泡の中で反響しているだけだと。
けれどノーアは知っていた。
星は、届いた声に返事をしてくれたのだ。
その夜、満月の下、泡水官が記録する。
「今宵、一名が“名を呼ばれた”。
星は応え、風が記録を超えた。」
祭の終わり、ノーアのスカーフは音を奏でていた。
それは、浮かんだ心の証。
翌朝、ノーアの記録端末にひとつの通知が入る。
「未読の泡あり」
中身は映像ではなく、風だけの音だった。
けれどそこには、たしかに想いがあった。