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白鴎婚礼祭の当日、大広間は朝から白と銀に埋まっていた。天井からは白鴎の羽飾り、柱には海色の布、床には新しく磨かれた石の光。祭りの名に恥じぬ華やかさの中で、しかし空気だけは張りつめていた。
地獄門跡から戻ったあと、保守派重臣たちは方針を固めたらしい。銀色の鎖の件を「神意による仮婚約」としてそのまま発表し、王家の威信を守る。口を閉ざせば波風は立たない。整った説明で、反論の余地がないように見える。だがそこには、アーダの意思も、ヴォロジャの意思もなかった。また本音を置き去りにした誓いになる。
壇の下でその話を聞かされた時、アーダの手のひらは冷えていた。怖い。けれど、もう黙ったまま従うだけの自分ではいたくない。隣を見ると、ヴォロジャもいつになく硬い顔で前方を見据えていた。
呼び出しの声が上がる。大広間の中央へ進み出た時、無数の視線が刺さった。好奇心、警戒、祝福、打算。そのどれもが、今日ここで二人に何を言わせるかを見ている。だが、地獄門の前で流した涙より、この視線のほうが軽いとアーダは思った。
重臣の一人が朗々と宣言しかけた、その時だった。
「お待ちください」
ヴォロジャが前へ出た。
騎士の礼装の胸元で、銀の留め具が光る。彼はこれまで命令に従う側に立ち続けてきた人だ。その彼が、王都じゅうの視線の前で、初めてはっきりと首を振った。
「誰かのために従うことばかり覚えてきた。でも今日は、自分の心で選びます」
広間がどよめく。シグリドが壇の端で細く息を吐き、アリツは口元だけで笑った。ヴォロジャは振り返り、アーダの手を取る。鎖はまだ二人を結んでいる。けれどその重みは、最初のような冷たい拘束ではなかった。
「俺は、誰にでも同じではいられなかった」
ヴォロジャの声が、まっすぐ届く。
「お前が笑うと安心する。お前が傷つくと苦しい。舞踏会から外された時に一番怖かったのは、自分の役目を失うことじゃなく、お前の隣に立てなくなることだった」
飾り立てた言い回しではない。うまく整ってもいない。ただ、地獄門の前でようやく掴んだ本当の言葉だけがそこにあった。
今度はアーダの番だ。完璧な言い回しを探せば、また遅れる。だから探さない。
「綺麗に言えません」
声は少し震えた。それでも、もう逃げない。
「でも、あなたと出会えた事が一番の宝物です」
その瞬間、銀色の鎖が白く発光した。
締めつける痛みはなかった。代わりに、冷たかったはずの輪が春先の水のようにやわらかくなり、二人のあいだを流れる光へ変わっていく。ざわめきが止み、大広間全体が息を潜めた。白い光は天井の羽飾りへ反射し、まるで本物の白鴎が一斉に羽ばたいたように見えた。
しゃらり、と澄んだ音がひとつ鳴る。
鎖はほどけた。床へ落ちることなく、光の糸のようにほどけ、最後に二つの小さな銀環となって、アーダとヴォロジャの手のひらへ残る。
遠くで誰かが息を吐いた。張りつめていた空気が、ようやくほどける。シグリドは腕を組んで満足そうに頷き、アリツは肩をすくめた。アンフリーデは泣きながら帳面の端へ何か描き始め、パスコはなぜかにんにく蜜菓子の箱を抱えて感極まっている。
重臣たちは言葉を失っていた。神意を都合よく言い換える余地は、もうない。本音から生まれた祝福を、誰もねじ曲げられなかったからだ。
ヴォロジャはまだアーダの手を離さない。アーダも離す気になれない。白い光の残る大広間で、二人はようやく、誤魔化しのないところへ立てたのだと思った。