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ホテルの部屋は、午後の薄い陽光に照らされ、静寂に包まれていた。カーテンの隙間から漏れる光が、乱れたシーツの上に淡い影を落としている。如月倫子はベッドに横たわり、肩で熱い息を吐いた。さっきまでの激しい情熱の名残が、彼女の体にまだほのかに残っている。けれど、その熱はすでに冷めつつあった。部屋の中には、情事の後の虚しさが漂い、まるで空気が重くなったかのように感じられた。
賢治はベッドの端に腰かけ、煙草を口に咥えた。火をつける前に、ちらりと倫子の方を見る。
「倫子、俺が先にシャワー使って良いか?」
彼の声は軽く、どこか余裕たっぷりだ。倫子は少し考え、首を振る。
「…バスタブに浸かりたいから、準備して」
声は落ち着いているが、心の中では何かがざわついている。「わかったよ」賢治は特に何も疑うことなく、鼻歌まじりにベッドから立ち上がった。バスルームのドアが開き、ダウンライトが柔らかく点灯する。レインシャワーの水音が、静かな部屋に響き始めた。賢治の逞しい背中に水が叩きつける音が、倫子の耳に届く。まるで、さっきまでの逢瀬の時間を、賢治がボディソープで排水口に流し去っているかのようだった。
(…賢治)
倫子の心に、冷たい棘が刺さる。この不倫関係を、彼女が素直に受け入れられるはずがない。賢治との時間は、確かに熱く、激しく、彼女を一瞬だけ満たしてくれる。けれど、その後にやってくるのはいつもこの虚しさだ。賢治には妻がいる。綾野菜月。名前を思い出すだけで、倫子の胸にどす黒い感情が広がる。倫子はバネ仕掛けの人形のようベッドから飛び起き、賢治のスーツが掛かったハンガーに向かった。胸ポケットに手を突っ込む。指先が探るが、何もない。
「ない…」
彼女は小さく呟き、背後を気にしながら賢治のビジネスバッグに目を移した。ジッパーをそっと開けると、そこにはシルバーの光を放つ賢治の携帯電話があった。以前、二人でレストランで食事をしていたとき、賢治の取引先から電話がかかってきたことがあった。その時、倫子はチラリと暗証番号を見ていた。単純な数字の羅列。2424。彼女の指が震えながらも、迷わず画面に触れる。
呆気なくロックが解除され、ホーム画面が現れた。そこには、ウェディングドレスに身を包んだ女の姿があった。賢治と並んで笑う彼女の顔は、幸せそのものだった。白い陶器のような肌、血色の良いふくよかな唇、優しく弧を描く目尻。倫子の眉間にシワが寄り、口元が歪む。携帯電話を握る手に、思わず力が入った。
(これが…賢治の妻)
カメラロールをスワイプすると、菜月の写真が次々と現れる。花束を持った菜月。カフェで微笑む菜月。賢治と肩を寄せ合う菜月。どの写真の彼女も、倫子とはまるで正反対の美しさを持っていた。穏やかで、柔らかで、どこか無垢な輝き。倫子は思わず目を逸らし、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
(名前は…名前は!?)
倫子はアドレス帳を開いた。そこに、「綾野菜月」とフルネームで登録された名前を見つける。忌々しいその名前を目にした瞬間、彼女の心に火が点いた。嫉妬と憎悪が、胸の奥でぐるぐると渦を巻く。バスルームから水音が途切れ、賢治の声が響いた。
「倫子!一緒に入らないか!」
倫子はハッとして、慌てて菜月の電話番号を自分の携帯で撮影した。
カシャ。
シャッター音が小さく部屋に響く。
「そんなこと言って!またするつもりなのね!」
倫子はわざと軽い口調で返し、動揺を隠す。
「良いじゃないか!」
賢治の声は笑いを含んでいた。
「ちょっと待って!」
「早く来いよ!のぼせるだろ!」
「待ってってば!」
倫子は急いでアドレス帳をスクロールし直す。その時、彼女の目は一つの名前に引っかかった。「美希」。他の連絡先はフルネームで登録されているのに、この「美希」だけが異質だった。女の名前。倫子の勘が、鋭く反応する。
(…賢治には、菜月以外にも女がいる)
自分が賢治の不倫相手であるにもかかわらず、倫子の心は激しい憎悪で燃え上がった。菜月への嫉妬はもちろん、この「美希」という新たな存在に対する怒りが、彼女の胸を締め付ける。彼女は震える手で、美希の電話番号も撮影した。
カシャ。もう一枚。
倫子は急いで賢治の携帯を元に戻し、ビジネスバッグのジッパーを閉めた。鏡の前で深呼吸し、作り笑顔を浮かべる。バスルームの扉を開けると、湯気がふわっと立ち上り、賢治がタオルで髪を拭いている姿が見えた。
「お、遅えな!何してたんだよ?」
賢治は笑いながら、倫子をからかうように言う。
「んー、ちょっとメイク直してただけ」
倫子は軽く肩をすくめ、自然を装う。だが、心の中では、菜月と美希の名前がぐるぐると回っていた。バスタブに湯が張られ、ふわっと漂うバスソルトの香りが部屋に広がる。賢治はタオルを肩にかけ、「お前も入るか?湯、ちょうどいいぞ」と言う。倫子は頷き、バスルームに足を踏み入れる。だが、彼女の頭の中は、さっき見た写真と名前でいっぱいだった。
(菜月…美希…)
倫子は湯船に浸かりながら、目を閉じた。熱い湯が体を包むが、心の冷たさは消えない。賢治はもうバスルームを出て、部屋でテレビをつけていた。ニュースの音が遠くで聞こえる。倫子は湯の中で膝を抱え、考える。賢治との関係は、いつからこんなにも複雑になったのだろう。最初はただの火遊びだった。同窓会で再び燃え上がった恋情。
だが、回数を重ねるごとに、倫子の心は賢治に縛られていった。彼の笑顔、声、触れる手。そのすべてが、倫子を捕らえて離さない。なのに、賢治には妻がいる。そして今、さらにもう一人の女の存在が浮上した。
(美希って、誰?)
倫子は湯の中で唇を噛む。賢治が他の女とどんな関係を持っているのか、想像するだけで胃が締め付けられるようだった。菜月は妻だから、仕方ない。そう自分に言い聞かせてきた。だが、美希は違う。美希は、倫子と同じように、賢治の「もう一人の女」かもしれない。その事実が、倫子のプライドをずたずたに切り裂いた。
湯船から上がると、倫子はバスタオルで体を拭きながら、鏡に映る自分を見た。そこには、疲れた目をした女がいた。美しいと言われる顔立ちだが、今はどこか歪んでいる。嫉妬と不安が、彼女の表情を硬くしていた。
部屋に戻ると、賢治はベッドに寝転がり、テレビを見ながらビールを飲んでいた。「お、早かったな。湯、良かっただろ?」彼はいつもの軽い調子で言う。
「うん、気持ちよかった」
倫子は笑顔を作り、ベッドの端に腰かける。だが、頭の中では、美希の名前が繰り返し響いていた。
「なぁ、倫子。来週、ちょっと忙しくなるかもしれねえけど、時間作るからさ。また会おうぜ」
賢治はビールを一口飲み、笑いながら言う。
「そうね、会いましょう」
倫子は答えるが、声には力がなかった。賢治は気づかない様子で、テレビのチャンネルを変える。その夜、ホテルを出た後、倫子は一人でタクシーに乗り込んだ。窓の外を流れる夜景を眺めながら、彼女は自分の携帯を取り出し、さっき撮影した菜月と美希の電話番号をじっと見つめた。
(どうする…?)
倫子の指が、画面の上で震える。美希に連絡して、彼女がどんな女なのか確かめる?それは、倫子をさらに深い闇に引きずり込む選択肢だ。だが、彼女の心は止まらない。賢治を独占したいという欲望と、裏切られた怒りが、彼女を突き動かす。
タクシーが倫子のマンションの前に停まると、彼女は深呼吸して降りた。夜の空気が冷たく、肌に刺さる。携帯を握りしめながら、倫子は決意を固めた。
(賢治は私のもの。誰にも渡さない)
翌朝、倫子はカフェでコーヒーを飲みながら、携帯を手に考える。彼女は美希の番号をタップした。メッセージアプリを開き、短い一文を打ち込む。「あなた、綾野賢治とどんな関係?」送信ボタンを押す瞬間、倫子の心臓は高鳴った。返事が来るのか、来ないのか。それとも、賢治にバレるのか。すべてが賭けだった。