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第10話 光の長さ
その夜、ナミオは食堂に寄らなかった。
鍋の匂いは通路まで来ていた。
保存食の塩気も、地下菜のやわらかい甘さも、腹の方を引っぱるには十分だった。けれど今夜は、腹より先に耳が起きていた。いや、耳だけではない。目の奥まで、何か来る前の感じで落ち着かない。
ハジメの部屋の前には、もう細い鉄の枠が三つ並べられていた。
煤けた板。
小さな穴の空いた鉄片。
針。
曲がった金具。
古い灯りの殻。
光を拾うために作られたのか、壊れたものを無理やりそう見せているのか、ぱっと見ただけではわからない道具ばかりだ。
ハジメはその中でしゃがんでいた。
額の薄い布は少しずれていて、いつもより目の下に疲れが見える。袖口まで閉じた作業着の先で、指だけが忙しい。何かを急いでいるわけではないのに、急いでいないとも言い切れない動き方だった。
「来たか」
「来た」
ナミオはラジカセを胸から下ろし、壁ぎわへ置いた。
「食ってないだろ」
「あとで」
「倒れるなよ」
「倒れる前に鳴らす」
ハジメは少しだけ口もとを動かした。
「そういう顔してるな」
机の上には、前に見た細い線の板が重ねてある。
長い線。
短い線。
途中で揺れた線。
急に細くなって消える線。
その隣に、今夜は別の板もあった。
前よりずっと整っている。
長さが比べやすいように印が刻まれ、浅い傷で区切りがつけられていた。
ナミオは身を乗り出す。
「増えてる」
「昨日のあと、少し拾った」
「また?」
「戸の継ぎ目と、換気の穴の縁」
ナミオは板を見下ろした。
長い。
短い。
長い。
長い。
短い。
そしてまた、短い、短い。
「これ」
ナミオは思わず指を伸ばし、触れそうになって止める。
「長さ、あるな」
「ある」
ハジメは針を持ち上げ、板の端を軽く叩いた。
「揺らぎじゃなくて、長さがある」
「違うの?」
「違う」
ハジメは板を二枚並べる。
「前は、ざらつきの揺れを見てた」
「今日は、そこに乗る長さを見てる」
ナミオは言葉の意味をゆっくり胸へ落とす。
揺らぎ。
長さ。
ただ乱れているのではない。
ただ気まぐれに震えているのでもない。
長い光。
短い光。
そういう区切りがある。
#読み切り
ruruha
656
羽海汐遠
11,106
みほり
694
「……信号みたい」
ナミオが言うと、ハジメはすぐには頷かない。
そのかわり、板の上の長い線を爪の先でなぞった。
「そう言いたくなる形をしてる」
「言いたくなるじゃなくて」
「まだ早い」
ナミオは口をとがらせる。
「またそれ」
「早いものは、だいたい壊れる」
「でもこれ、長さあるんだろ」
「ある」
「音にも似てる」
「似てる」
「じゃあ」
「言いたくなる」
そのやりとりが少しおかしくて、ナミオは笑いそうになったが、笑う前に胸の方が先に熱くなった。
長い。
短い。
長い。
もし、これが本当に光の長さなら。
もし、長さそのものに形があるなら。
光はただ危険なだけじゃない。
避けるだけのものではなくなる。
昼を捨てた世界の側から、夜へ何かが伸びてくる。
それは少し怖かった。
でも、その怖さは初めて聞いた音に似ていた。
「鳴らせるかな」
ナミオが言う。
ハジメはそこで初めて、はっきり頷いた。
「今日はそのために呼んだ」
部屋の空気が、そこで少しだけ変わる。
ナミオはすぐラジカセへ手を伸ばした。
傷だらけの箱は、いつもより少しだけ冷えていた。継ぎはぎの持ち手を持ち上げると、中の部品が小さく鳴る。
ハジメは細い鉄の枠を手に取った。
「これに光を通す」
「どこから」
「今日は戸の継ぎ目は使わない」
「なんで」
「危ない」
その答えは短かった。
ハジメは部屋の奥に立てかけてあった古い板を引き寄せる。
板の真ん中には、細い切れ目が一本だけ入っている。
「前に拾っておいた反射がある」
「拾っておいたって何だよ」
「昼の名残」
「怖い言い方するな」
「怖いものだからな」
ナミオは黙った。
そうだった。
昼の名残。
赤い砂と合わされば肌を泥へ寄せるもの。
軽くは扱えない。
でもハジメはその軽く扱えないものを、こうして部屋の中で薄く削っている。
「触るなよ」
「わかってる」
「顔がわかってない」
「ひどい」
ハジメは板の切れ目へ鉄の枠を合わせ、その後ろに煤けた小さなガラス片を置いた。
さらに、細い針を小さな輪へ触れさせ、その輪の先をラジカセの横へ伸ばす。
ナミオは見ているだけで息が浅くなる。
「これ、ほんとに鳴るの」
「鳴らなかったら、また考える」
「研究者のずるいやつだ」
「便利だろ」
その時、戸口の布が揺れた。
ユラだった。
肩で切りそろえた髪をざっと後ろでまとめ、長い袖の中へ手をしまっている。寝不足なのか、目の下の影は少し濃い。それでも目だけは、今夜の灯りよりずっと起きていた。
「始まる?」
「始まる」
ナミオが答えると、ユラはすぐ部屋へ入ってきた。
「ミツは」
「あとで来る」
ハジメが言う。
「板の整理してる」
ユラは机の横へしゃがみこんだ。
細い板の上の長短を見るなり、すぐ眉を寄せる。
「これ、前の音みたい」
「だろ」
ナミオが少しだけ得意げに言うと、ユラは頷いた。
「でも、もっとまっすぐ」
「光だからか」
「音より逃げない感じする」
その言い方に、ハジメが少しだけ顔を上げた。
「いいな」
「何が」
ユラがきょとんとする。
「逃げない感じ」
ハジメはそう言って、板を少しだけ傾けた。
部屋の灯りが弱まる。
切れ目の向こうに、細い筋が一瞬だけ走った。
ただの灯りではない。
灯りの中に、薄い揺れが見える。
いや、見えるというより、いる。
長い。
短い。
長い。
目で追うには短すぎるのに、消える前に形だけが残る。
ナミオの喉が鳴る。
「今の」
「拾え」
ハジメが低く言った。
ナミオはラジカセへ両手を置く。
指先は少し汗ばんでいる。
つまみを回す。
古い箱の中で、ざ、と細かな雑音が立つ。
何もない。
もう一度。
ざあ……。
まだ何もない。
「もっと左」
ハジメが言う。
「光の幅に合わせろ」
「幅なんて見えない」
「見ろ」
「雑!」
それでもナミオはラジカセを少しずらす。
鉄の輪の先に巻いた細い線が、かすかに震える。
ざ。
ぱ、と何かが鳴った。
小さい。
でも、雑音の中でそこだけが立った。
ナミオの目が見開かれる。
「……鳴った」
「もう一回」
ハジメが言う。
切れ目の向こうにまた細い筋。
長い。
その瞬間、ラジカセの中で低い持続音が薄く伸びた。
ぶつ、と切れる。
短い。
今度は高いところで、軽く弾ける。
長い。
また低く伸びる。
ナミオは息を止めた。
音だ。
ちゃんと音になっている。
光の長さが、そのままではないにしても、違う高さと長さを持ってラジカセの中へ落ちてくる。
「聞こえた」
ユラが囁く。
「ほんとに、聞こえた」
ナミオはつまみに触れたまま、動けなかった。
長い光が低く鳴る。
短い光が高く弾ける。
その並びが、前に拾った意味ではない音と、どこかで似ている。
長い。
短い。
長い。
揺れ。
音は雑音の海から来た。
でもこれは、もっと乾いている。
骨だけ先に来るみたいな感じだ。
「もう少し続ける」
ハジメが切れ目の板を少しずらす。
細い筋がまた走る。
今度は短い、短い、長い。
ラジカセの中で、高い音が二度、小さく跳ね、そのあと低い音が伸びた。
ナミオは思わず笑った。
「あるじゃん」
「だから言った」
ハジメの声は低いが、その奥には少しだけ熱があった。
ユラが袖の中で指を握る。
「音になってる」
「しかも、違う」
ナミオが言う。
「前のやつと似てるのに、違う」
「光の方が痩せてる」
ユラが言った。
その一言で、ナミオは振り向く。
「痩せてる?」
「うん」
ユラは切れ目の向こうを見たまま言う。
「歌の手前より、もっと骨だけ。肉がまだついてない」
ハジメが小さく息を吐いた。
「それもいいな」
「何が」
「骨だけ」
ユラは少し照れたみたいに目を伏せた。
ナミオはラジカセから聞こえる低い音と高い音を、何度も頭の中で並べ直した。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
前に拾った意味ではない音へ近づく時もある。
でも完全には同じにならない。
光の方が硬い。
乾いている。
まっすぐで、余計な湿りがない。
それでも、音にできる。
光の長さが、音に変わる。
その時、戸口の布がもう一度揺れた。
ミツだった。
細い体のまま一本の線みたいに立ち、こめかみの短い毛が少しだけ乱れている。急いできたらしい。喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸で浅く動く。
「始まってる」
「遅い」
ハジメが言う。
「板しまってた」
ミツはそう返しながら、すぐ机の横へ寄る。
「聞かせて」
ナミオは何も言わず、もう一度つまみへ指をかけた。
ハジメが切れ目の板を固定する。
細い筋が走る。
長い。
短い。
長い。
ラジカセの中で、低く、高く、低く。
ミツの目が、ほんの少しだけ大きくなる。
その顔を見て、ナミオの胸の奥がふっと軽くなった。
昨日までそこに残っていたざらつきが、少しだけ別のものになる。
「……これ」
ミツが言う。
「光の長さ」
ハジメが答える。
「そのままとは言わない。でも、長いものと短いものが違う音になる」
ミツは板を見て、ラジカセを見て、また板を見る。
「似てる」
「だろ」
ナミオが言う。
「意味ではない音と」
ミツはゆっくり頷いた。
「似てる」
その一言が、今夜は妙に重かった。
否定しない。
切らない。
秩序の外へ追いやらない。
ただ、似ていると認める。
それだけで、部屋の中の空気が少しだけ変わる。
「板へ残す」
ミツが言う。
「これは絶対」
「また板」
ナミオが少し笑う。
「板、大事だろ」
「大事だけど」
「これ消えたら困る」
ミツの言い方は短いが、迷いがない。
ハジメが頷く。
「今日はいい」
「何が」
「言葉が早い」
ミツは少しだけ目を細めた。
「たまには」
ユラが戸口の方を見る。
「これ、キリに聞かせたい」
部屋が少しだけ静かになる。
キリ。
自治区。
音を聞く人。
昨日までの痛みみたいな名前が、今夜は少し違う響きで戻ってきた。
ナミオはラジカセを見た。
「聞かせたい」
「でも、すぐはだめ」
ミツが言う。
ナミオが顔を上げる。
「また?」
「また、じゃない」
ミツは板を机の端へ引き寄せた。
「今度は、消したくないから」
その言い方は、前よりまっすぐだった。
「適当に混ぜたら、ただの雑音になる」
「ちゃんと形を取ってから渡したい」
ナミオはしばらく黙った。
それはたぶん正しい。
正しいから腹が立つ、という感じではない。
今夜は、正しい方へ少しだけ寄ってみてもいい気がした。
「じゃあ、作る」
ナミオが言う。
「何を」
「光の長さの音」
ハジメが小さく笑った。
「ようやくそこへ来たな」
「遅い?」
「ちょうどいい」
ナミオは床へ座り直し、ラジカセを膝に置いた。
ハジメは切れ目の板の位置を少しずつ変える。
ユラは長短の板を並べ替える。
ミツは新しい板を広げ、端へ細かな記号を刻き始めた。
長い光。
短い光。
揺れ。
繰り返し。
高い音。
低い音。
部屋の中に、まだ名前のない作業が生まれる。
ナミオは何度も同じ光を受け、ラジカセのつまみを少しずつ動かした。
低い音が長く伸びる位置。
短い光が高く弾ける位置。
途中で微妙に震える場所。
雑音が少し混じるけれど、その雑音さえ骨に肉をつけるみたいに効いてくる瞬間。
「そこ」
ハジメが言う。
「今の残せ」
「今のってどこ」
「おまえの耳で覚えろ」
「雑」
「耳の仕事だろ」
ユラが笑いをこらえる。
「ナミオ、それ得意じゃん」
「得意だけど」
「じゃあやれ」
ナミオは舌打ちしかけてやめ、もう一度同じ位置へつまみを戻した。
低い。
高い。
低い。
短く、短く。
長い。
今度は少しだけ、前の音へ近づいた気がする。
歌の手前。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
そのあたりへ。
ミツが板へ刻きながら呟く。
「これ、ほんとに歌になるかな」
ナミオは答えなかった。
でも、ラジカセの中で鳴った低い音が、少しだけ長く残った。
なりきらないかもしれない。
骨だけかもしれない。
でも、音にはなる。
それだけで十分な気もした。
時間はゆっくり過ぎた。
食堂の鍋の匂いが薄れていく。
通路の足音が減る。
遠くで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
それでも部屋の中だけは、まだ起きていた。
ハジメの目。
ミツの板。
ユラの指先。
ナミオの耳。
それぞれ違うやり方で、同じものを追っている。
やがて、ひとつの並びができた。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
長い。
光の長さから拾った並び。
音へ変わった並び。
まだ粗い。
けれど、ちゃんと形がある。
ナミオはラジカセを抱いたまま、それをもう一度鳴らした。
低い音。
高い音。
低い音。
小さく二度。
また低く長く。
部屋が静まる。
今度は誰もすぐには何も言わない。
さっきまでの試行錯誤とは違う。
これは、たぶん最初の「できた」に近かった。
最初に口を開いたのはユラだった。
「……光、こんな音なんだ」
その言い方が、ナミオには少しうれしかった。
「こんな音、なんだろうな」
ハジメが低く返す。
ミツは板を見下ろしたまま言う。
「信号になるかもしれない」
ナミオはその言葉を聞いて、ゆっくり息を吐いた。
信号。
ついに、その言葉が出た。
今までずっと、言いたくなる、で止めていた言葉。
早いと言われていた言葉。
でも今は、かもしれない、がついている。
そのかもしれないが、前よりずっと濃い。
「音にもできたし」
ナミオが言う。
「届くかもしれない」
ミツは顔を上げ、ナミオを見た。
「だから、雑に送らない」
「わかってる」
「ほんとに」
「……今夜は」
ハジメが少し笑う。
「成長したな」
「うるさい」
でも、ナミオも少し笑った。
今夜はたしかに違う。
消された電波の夜とは違う。
届いた音の夜とも違う。
これは、昼の側から夜へ伸びてきた最初の細い線だった。
食堂へ出る頃には、鍋はほとんど空になっていた。
カザンがまだ残っていて、鍋の底をこすっている。
首の太い影が壁へ落ち、鼻筋の横の浅い傷だけが先に動いた。
「遅い」
「見つけてた」
ユラが言う。
「また?」
「今度は光」
トウヤも椅子の上で半分眠りながら待っていた。
顔を上げて、欠伸を噛み殺す。
「昼と喋れた?」
「少しだけ」
ナミオが答える。
それで二人とも、冗談半分の顔をしながらも、ちゃんと黙った。
軽く笑えないことが増えてきている。
でも、それは悪いことだけじゃない。
カザンが鍋の底から少しだけ残ったものをすくい、四つの皿へ分ける。
ナミオの皿が、気づかれないくらい少しだけ多い。
「今日の分」
「何の」
「光」
「安いな」
「鍋の底は高いぞ」
ナミオは皿を受け取った。
ぬるい。
塩気が強い。
けれど、腹へ入れると少しだけ世界がまとまる。
鍋の湯気の向こうで、ミツが板を膝に置いたまま食べている。
板から目を離さない。
でも、その横顔は昨日までよりずっと険しくない。
「キリにはまだ?」
トウヤが聞く。
ミツは短く答える。
「まだ」
「でも、そのうち」
「そのうち」
ナミオはそれを聞きながら、皿の中の豆をつぶした。
そのうち。
今夜は、それで十分だった。
光は長さを持っていた。
その長さは音になった。
音は、前の意味ではない音に似ていた。
そしてその先には、たぶんキリの耳が待っている。
全部が一度に進まない方が、今夜はむしろ安心できた。
食後、ナミオは見張り小屋の下へ行った。
地上への戸は閉じたまま。
赤い砂は向こうに残っている。
昼の光も、そのままそこにある。
けれど今夜は、ただ怖いだけではなかった。
ラジカセを胸へ抱く。
膝の上で、さっき作ったばかりの並びを指先だけでなぞる。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
長い。
光の長さ。
それを音へ変えたのは、自分の耳と、この傷だらけの箱だ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
遠くで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
最後の灯りが残るあいだ、ナミオは目を閉じた。
耳の中にはまだ、低い音と高い音が残っている。
昼の光が、夜の音になった。
その事実だけで、
赤い砂だらけの世界の形が、ほんの少しだけ変わって見えた。
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うわ、10話、すごく良かった……! 今まで「揺らぎ」として捉えてたものが「長さ」として見えてきた瞬間、正直ぞわっとしました。しかもラジカセで音に変えてしまう発想がもう、世界の捉え方そのものを変えていく感じで。ミツが「信号になるかもしれない」って口にした場面、ここに辿り着くまで長かったんだなって思うと胸が熱くなりました。ユラの「骨だけ」という表現もぴったりで、痩せた光の音質が今にも耳に残りそうです。