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「よろしくね優羽ちゃん。俺は一瀬雪矢(いちせ ゆきや)。君より学年がひとつ上だけど、一応アーティスト兼音楽プロデューサーをやっているんだよ。君の歌声を録ったのを須田さんから聴かせてもらった。優羽ちゃん、君の歌声は本物だ」
歌声を、録った?
いつのまに?
そう言えば、何年か前の中学生の頃、お父さんが生きていた時に須田さんの前で歌ったことがある、その時―――?
そんな前から、わたしを??
「わ、わたし…」
「優羽ちゃん」
深い飴色の瞳が、じっとわたしを見つめた。
「俺は君の歌声に夢中になってしまった。君を、最高の歌姫にしたい」
「……」
「まぁ、とりあえずおまえの生の歌声を聴かせてくれないか、優羽」
思わず口ごもるわたしの手を、須田さんが乱暴に引っ張った。
「あ、の、わたし…!」
「まぁいいから」
連れていかれたのは、隣の部屋。
そこはピアノがあるレッスンスタジオだった。
「さぁ、歌ってくれないか、優羽」
「え…」
そんな、急に…。
「まずはリラックスしようか」
と、雪矢さんがわたしの手を引いて椅子に座らせる。
そして、動揺を隠せないままうつむくわたしの前で膝をつくと、手を伸ばした。
「君みたいな恥ずかしがり屋さんは、かえって視界が悪い方がリラックスできるんじゃないかな?」
「あ…っ」
すっ、とメガネがはずされた。
一瞬にして、あたりはぼやけてしまう。
どうしよう、なにも…見えない…。
「…ん?」
すぐに、独り言のような雪矢さんの声がした。
「…しない方が、ずっと可愛いな」
けど、混乱しているわたしには、その言葉の意味もよく解からない。
ぼやけた世界に投げ出され、不安で胸がおしつぶされそう。
そんなわたしを無視して、雪矢さんの手が、今度はおさげの髪どめに伸びる。
「髪も解いてみようか」
ゴムを取って髪をすいていく。
男の人に髪を触られることなんてなかったわたしは、緊張して固まってしまう。
ウェーブがかかった髪が、ふんわりと持ち上げられ、はらりと落とされた。
その瞬間、
「へぇ…」
雪矢さんが吐息まじりにつぶやいた。
「…ほんとに、ダイヤの原石だな…」
ぴりっ、と。
雪矢さんの雰囲気が、変わった気がした。
わたしはもう、息もできない。
こわくて、不安で…震えを抑えるのに必死で…。
泣きそうになりながら、おそるおそる雪矢さんを見つめた。
「その上目使い、相当やばいよ?」
「……」
「俺に会う前に、この学園の他のやつにそれした?」
「…?」
「ふふ。まぁいいか。まさかアイツには会ってないだろうし」
アイツ?
だれの、こと…?
「須田さんの言う通りだ。君のような宝石をみすみす見過ごすのは実に愚かだ。確実に君は最高の歌姫になれる」
いや。
歌姫なんて、ならなくていい。
人前でなんて歌いたくない。
しっかりしなきゃ…わたし…
勇気を出して…
ここでちゃんと言わなければ…!
「わた…し歌手になんてなりたくない」
どうにか絞り出したのは、小さな声。
けど、雪矢さんには聞こえたと思う。
雪矢さんはやさしそうな人だ。
だからちゃんと伝えれば、解かってくれるはずだ…。
「う…歌うのは好きです…。ただ歌っているだけで幸せなんです…。それ以上のことなんて望んだこともない…。だから…歌手になんて、ならなくていいです…」
怒ったかな…。
だいじょうぶ…怒ってなさそう…。
雪矢さんは、かわらずあの砂糖菓子のようなやさしい微笑を浮かべて―――
「だめ。逃がさない」
耳の裏がゾクりとするような声でささやかれた。
「きっと、みんな君に注目しきりになる。男の子は君に夢中になって、女の子は憧れてこぞって真似をする。須田さんもそうお考えですよね」
「そうだ、優羽。君はテレビに雑誌に引っ張りだこで、みんな君を一目見たいと、コンサートやイベントのチケットを買うのに、湯水のごとく金を使う。君はそういう運命の元に生まれたんだ。運命からは逃れられないよ」
重々しい声で言い放つ須田さんは、見たことのないような怖い顔をしていた。
テレビ?
コンサート??
いやだそんなの。
人前に出るのもいやなのに、
歌うだなんて。
わたしはただ、お父さんの前だけで歌っていれば、幸せだった。
お父さん。
お父さんも、それでいいって思っていてくれたはずでしょ…?
『優羽。おまえの歌声は、誰よりもすばらしい。歌ってくれ、ぼくの小鳥。おまえの歌声は、みんなに幸せをあたえるよ』
『君を歌手にするのは、お父さんの私への遺言でもあるんだ』
『ここを去るのは、君が大好きだったお父さんが君に宿した想いをも捨てる、ということになるんだからね?』
胸が苦しい。
なにも考えられない。
得体の知れない圧力に押し潰されてしまいそうで。
とっさに椅子から立ち上がると、わたしは逃げ出した。
「待ちなさい、優羽」
須田さんの声を聞いたのを最後に、部屋から飛び出した。
須田さんも雪矢さんも追ってはこなかった。
逃げ出したところで、わたしに行き場所なんて、他にはないことを知っているから。
この真っ白で綺麗なお城から出て行ってしまえば、独りでなんて生きていけない。
そうまるで。
ここは鳥籠だ…。
自分からまんまと入ってしまった鳥籠のなかで、わたしは闇雲に走りつづけるしかできなかった。