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放課後の光が傾き、校舎の一角にある相談室は薄い橙に染まっていた。窓際の机で書類をまとめていた日下部の前に、そっと扉が開く音がした。
「……入っていい?」
顔を上げると、同じ学年の男子が立っていた。制服の襟が少し乱れていて、目の下にうっすらとクマがある。
「もちろん。座って」
彼は無言で椅子に腰を下ろした。
机の上のペン立てをじっと見つめたまま、しばらく黙っていたが、やがて、かすれた声で言った。
「“好き”って、言葉……もう信じられないんだ」
日下部は頷くだけで、何も挟まなかった。
言葉の続きを、相手が見つけようとする沈黙を壊したくなかった。
「最初は、嬉しかった。
“好きだよ”って言われるたび、ちゃんと人として見てもらえてる気がしてた。
でも、ある日いきなり、何も言わずに離れられて……。
そのあとに“ごめん”って言われたとき、なんか全部、嘘だったんだなって思った」
その声には怒りよりも、諦めが滲んでいた。
「それ以来さ、誰かに優しくされると怖い。
“また終わるんじゃないか”って、頭のどこかで思っちゃう。
優しさって、いつか“さよなら”の前触れみたいに感じるんだ」
日下部は椅子の背にもたれ、静かに息をついた。
「……信じるって、たぶん“もう傷つかない”ってことじゃないと思う」
彼が顔を上げた。
「本当の“信じる”ってさ、怖いのに、それでも近づくことじゃないかな。
また傷つくかもしれないって分かってても、心のどこかで“それでも”って思えること」
「……そんな勇気、もう残ってないよ」
「無理して持たなくていい。
無理に信じようとすると、それこそ壊れるから。
“もう信じられない”って言える時点で、まだちゃんと感じてる証拠だよ」
彼の手が、少し震えながら膝の上で握りしめられた。
「……感じてる証拠、か」
「うん。
何も感じなくなったら、ほんとに終わりだから。
まだ“怖い”って思えるなら、きっとまた誰かを信じられるよ。
それが今日じゃなくても、いつか、ね」
男子はしばらく黙っていた。
やがて、窓の外の夕陽を見上げながら、小さく笑った。
「……“いつか”って言葉、悪くないな」
「だろ?」
少しだけ空気が緩む。
部屋の中を夕陽がゆっくりと抜けていき、机の影が長く伸びていった。
扉の方へ向かう彼の背中に、日下部が静かに言葉を落とした。
「“好き”って言葉、いつかまた信じられるようになったら、その時の自分は今よりきっと強いよ」
その声に、彼は立ち止まりもせず、ただ片手を軽く上げて出ていった。
残された部屋に、橙色の残光だけが滲んでいた。