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「……行っちゃったなぁ」
残念そうな顔をした陽が、奏の背中を見送りながらボソッと呟く。流れで家に連れ帰ってしまうか、もしくは会社までついて行ってしまいたい気持ちを抑えながらソファーに座り、隣に腰掛けた明に対して体を向ける。奏の後を追いたい気持ちは強くとも、妹を蔑ろにもしたくないみたいだ。
「愛らしいお義兄さんだったね。あ、もちろん圭くんも可愛かったけど。彼は“オトコの娘”だと事前に聞いてはいたけど、まさか兄弟揃ってとは珍しいなぁ」
「待ってくれ、兄さん。何度も何度も何度も訂正しているが、奏さんは正真正銘『お姉さん』だぞ?」
徹底してその事実を受け入れようとしない陽に対し、明が困った顔を向ける。なぜここまで兄が強情なのか全くわからない。ちょっと不思議なところがある人だとは常々思ってはいたが、ここまでひどいのは初めてだった。
「そんな訳無いってば。だって私はゲイだよ?女性相手にこんなに色々と、滾る思いを感じる訳がないじゃないか」
にっこりと爽やかな笑顔で、陽がハッキリと言った。
「……え?」
初耳だ。そんな気配は微塵も——と思った明だったが、よくよく思い返してみると、兄から『彼女がいる』とか『好きな女性ができた』などの話は一度も聞いた事がなかった事に思い至る。
だがしかし『彼氏がいる』という話も聞いた事がなく、それらしい様子を見た記憶も無い。ならばきっと兄さんはまた何か激しい思い違いをしているのでは?と考え、明は兄に探りを入れてみる事にした。
「何を、根拠に?」
「光くんに『兄さん、口を開けば湯川さん湯川さんってもー、五月蝿い。彼の事が好きなんじゃないの?』って言われたからだよ」
あ、納得。
明はストンッと腑に落ちるものを感じた。
国内最大手であり、陽の勤め先でもある『湯川製薬』の代表取締役である湯川大和は彼の直属の上司だ。だが二人はそれだけの関係ではない。古くからの調香師一族である青鬼家は、遙か昔から湯川家とは懇意にしてもらってきた。専属の調香師を湯川家に派遣したり、人脈や金銭的な支援をしてもらったりと、長年にわたって懇意にしてきた間柄だ。
陽と大和は互いに幼少期の頃から遊び、同じ学校へと通い、職場も一応は一緒なので、どうしたって話題は湯川が中心になってしまう。ただそれだけならば弟の光も多少は似た様な立場なので何も言わなかったのだろうが、あまりにも口を開くたびに陽が『湯川さんがね——』ばかりである為、弟はそう感じたのだろうなと明は推測した。
「確かに兄さんは大和さんと仲が良いが、ただそれだけでは?イコールで同性愛者だとは言えないと思うんだが」
「え、でも私は湯川さんの事が大好きだよ?」
子犬か!と思わせる笑顔で陽が小首を傾げる。
微塵も製薬会社の仕事をしようとせず、それなのに『妻が家にいない時しか働きたく無い』などという理由で、薬剤師として、友人が経営する病院でパート勤務をしている彼に代わり、一切合切の仕事の全てを陽が引き受けている。だが陽はあくまでも湯川の代理として指示を出しているだけで、会社を乗っ取ろうという野望は微塵も無い。健気といえば聞こえはいいが、傍から見ている分には、都合の良い男のようにも思えるだろう。
「……その『好き』は、何というかアレだ。だ、抱きたい的な?」
恐る恐るといった面持ちで明がそっと訊いた。二人の事を知っている身としては答えを聞きたくはないのだが、重要な点でもあったので避けられない。
「え、何それ、気持ち悪い事言わないでよ。湯川さんは既婚者だよ?浮気はダメ、絶対」
心底嫌そうに言われ、明の頭が疑問符でいっぱいになる。
「大和さんの奥さん……えっと、那緒さんだったか。那緒さんの事は?彼と別れさせたいとか、あるのか?」
「ある訳ないでしょ。那緒さんの存在は湯川さんの全てだよ?人生を取りあげるに等しい事を望むなんて、彼を殺すも同義じゃないかな」
「た、確かに」
湯川の行動原理の全てが妻を中心にするくらいに奥さんに依存している事を思い出し、愚問だったと明が反省した。
「湯川さんの幸せが私の幸せだよ。そう思うって事は、私は彼が好きって事であってるだろう?」
「……確か、に?」
(でも本当にそうか?それは家族愛と何が違うんだ?だが、常軌を逸していると感じられるくらいに兄さんは大和さんに対して献身的過ぎるし、好きな人への愛ともいえなくもない、のか?)
考えていて、色々とわからなくなってきた明が頭を抱える。だが、兄が湯川の事が好きなのだという点だけはしっかりと理解出来た。
「じゃあ奏さんの事は?」
「可愛いね!好きかも。いや、好きだな。あんな素敵なお義兄さんができるなんて、明ちゃんに感謝だよ」
「“姉さん”だと何度言えば……」
「わかった。今度からちゃんと、義兄さんと呼ぶね」
オトコの娘だもんな。そっちで呼ばれたいよね、と陽が一人勝手に納得した。
その事を明は雰囲気で察したが、『あ。これ以上は言っても無駄だ』と思った。
「あんなに下っ腹に響く雰囲気の人は初めて見たよ。こう、背筋がゾクッとするというか、押し倒したくなる感じとかがすごくいいなぁ。猫みたいなキリリとした瞳がまた可愛かったよね。小さい体で着る仕事着の白衣とか、とっても似合うんだろうなぁ。明日の出勤が楽しみだよ」
無駄に清々しい顔で言われるせいで一瞬『あぁそうだな』と同意しそうになった明だったが、途中で内容が変質的である事に気が付いて、声を発する前に慌てて口を閉じた。 後半は激しく同意出来るが、前半はさっぱりだ。でもまぁ、兄に好きな人が出来る事自体は喜ばしい。応援したいが、あくまでそれは本気で好きならばの話である。どこまで真剣に奏に対して惚れているのか、今後しっかり見極めねば、と明が決意した。
「とにかくまぁ、明ちゃんと圭くんの結婚に私は反対しないよ。妹は大事だけど、『妹はやらん』だなんて言って人の恋路を邪魔する気は、家族相手でも無いからね。両親の説得にも協力する。というか、大歓迎されると思うなぁ。彼は“椿原の家の子”だしさ」
「そう、なのか?」
兄の言う『椿原の子だから歓迎される』の意味がわからず、明がキョトンとした。
「うん。だから安心して。父さん達へ話す時は私も同席するよ。いかにあの兄弟が素晴らしいかを二人の前で語ってあげようじゃないか」
(ウザそうだな……)
その光景を想像し、明がスンッと真顔になった。
でもまぁ兄の協力を得られるのは心強い。実家は無駄に古い名家なので、結婚話は色々と面倒だろうなと思うと正直憂鬱だからだ。明は三人兄弟だが、まだ誰も結婚した事がないので、両親がこの類の話に対してどういった反応をするのか予測も出来ない。今日の集まりに来すらしなかった光は別として、一人でも味方は多い方が気持ち的にもありがたかった。
「君達が結婚する為だったら何だってするよ。結果的に奏さんを私の家族にする事が出来るしね。おに……お義兄さんと——とか、背徳感で燃えそうだなぁ。あははは」
今日兄から聞かされた言葉の中で一番力強い発言だったが……明は同時に、奏の貞操が心配にもなったのだった。
コメント
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いやあ、陽さんのキャラクターが本当に生き生きしてて面白かったです。特に「ゲイだ」と宣言した直後に奏さんを「お義兄さん」と呼び始める流れ、明ちゃんの困惑が手に取るように伝わってきました。そして「湯川さんの幸せが私の幸せ」っていう陽さんの独特な愛情の定義——家族愛とも恋愛とも違う、あの絶妙な距離感の表現が見事だなと。奏さんの貞操が心配になる明ちゃんの最後のツッコミも、思わず笑ってしまいました。陽さんの性癖の核心が少しずつ見えてきて、続きがすごく気になります。
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