その日凪子は昼休みは真野と一緒に外へ食事に行き、午後もずっとデスクにいたので、この日特に変わった事はなかった。
今良輔は、商品企画部と関わる案件を持っていないのでこのフロアを訪れる事はない。
安心して仕事へ集中していると、あっという間に終業時刻が来たので凪子は他の社員達と一緒に帰り支度を始めた。
新ブランドの件は全てが順調に進んでいたので最近はNO残業デーが続いていた。
凪子は真野一緒にエスカレーターで一階まで降りると、エントランスで真野と別れて駅へ向かった。
大通り沿いを歩いていると、なんとなく背後に違和感を持った。
(そうだ、常に後ろをチェックしないとだったわ)
凪子は急に信也や紘一に言われていた事を思い出すと、さりげなく後方をチェックする。
すると50メートル程後ろに良輔が歩いているのが見えた。良輔はなんとか凪子に追いつこうと早足で歩いている。
しかし次の瞬間すれ違う人と派手にぶつかり、一旦立ち止まって「すみません」と謝っていた。
凪子はゾッとした。まさか本当に良輔が後をつけてくるなどとは思ってもいなかったからだ。
(どうしよう…顔も見たくないのに)
焦った凪子は、すぐ目の前にある駅ビルへ逃げ込む事にした。
駅に直結した駅ビルは、この時間帯仕事帰りに買い物をする女性客で賑わっている。
その中に紛れてしまえば上手く逃げられそうな気がした。
凪子は駅ビルの入口脇にあるエレベーターのドアがちょうど閉まりかけているのを目にする。
そこで猛ダッシュした。
そしてなんとかギリギリエレベーターへ滑り込む事に成功した。
ドアが閉まる瞬間、良輔が必死にこちらへ走って来るのが見えた。
凪子はそれを見て思わず鳥肌が立つ。
しかし凪子の心配をよそに、エレベーターは良輔を残してスルスルと上に上がり始めた。
思わず凪子はフーッと息を吐く。
まさしく間一髪だった。
一瞬目にした夫の姿は、いつもとは違うだらしのない格好をしていた。
それもそのはずだ。
毎週日曜日に凪子が丁寧にアイロンを掛けてあげていたワイシャツがおそらく一枚もなかったのだろう。
ヨレたワイシャツに皺だらけのスーツを着た良輔の姿は、営業の第一線で働くビジネスマンからはほど遠かった。
(クリーニングにでも出せばいいのに…)
凪子は呆れ顔でそう思った。
何でも妻に任せっきりでいると、こういう時に困るのは自分なのだ。
(愛人はいいわよね、家政婦みたいな面倒な事は一切しないでいいんだもの。で、美味しいとこ取りでしょう? いっそのこと二人は結婚すればいいわ。そうすれば絵里奈もあの人の世話がいかに大変か身をもって知るはずだわ)
凪子は苦笑いをしながらついそんな事を思う。
その時エレベーターが目的の階に着いた。
凪子はもう少しキッチングッズを揃えたいと思ってたので、キッチン雑貨が並ぶ階でエレベーターを降りた。
しかし売り場を通り抜けるとそのまま化粧室へ直行する。
この駅ビルの化粧室はとても広くて清潔で、ホテルのようなパウダールームを併設していた。
パウダールームには椅子やソファーまで置いてある。
だから凪子はそこでしばらく時間を潰す事にした。
一人になった凪子には、時間はいくらでもあった。
仕事以外の時間は、全て自分の為に使えるのだ。
もう急いで帰って浮気夫の為に食事を作る必要もない。
改めて凪子は今の自分が自由の身なのだという事を実感した。
30分ほどパウダールームで過ごした凪子は、もうそろそろいいだろうと売り場へ戻った。
念の為辺りを見回してみるが、売り場にいるのはほとんどが女性だった。
ホッとした凪子は、その後ゆっくりとショッピングを楽しんだ。
そしてお目当てのマグカップと使い勝手の良さそうな皿を何枚か購入した後、家路についた。
その頃、良輔も自宅へ向かう電車の中にいた。
もうちょっとで凪子を捕まえられそうだったのに、凪子は良輔を避けるように逃げて行った。
凪子がエレベーターで上へ向かった後、良輔は必死に全フロアを探し歩いた。
しかし凪子はどこにもいなかった。
(ちくしょうっ! 話せばわかってもらえるのに。なんとか凪子と話をしないと…)
良輔はまだそんな思いに囚われていた。
弁護士からの注意事項はすっかり忘れているようだ。
しかしこの時の良輔は、自分の愚かな行為が後々自分の首を絞める事になるなどとは全く想像もしていなかった。
コメント
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話せばわかる、ってわからないから家を出たんだよ💢なんて自己中な良輔🤬 それに弁護士に注意されてる事何も守らずに凪子さんを尾行して追いかけるなんて正気の沙汰とは思えない💢💢💢 凪子さんも全て紘一さんに話して対処してもらおう‼️‼️