凪子は家に帰ると、すぐに紘一の弁護士事務所へ電話した。
そして今日の帰りにあった事を報告する。
「こちらの忠告を守らずに、更に妻に精神的苦痛を与えたとしてもう100万慰謝料を上乗せする事も出来るけれどどうする? 結婚期間が短く子供がいない夫婦としてはかなり破格の慰謝料になるけれど、まあ満額取れなかった時の事を考えて、あえて多く請求するのもアリだよ」
その辺の所は凪子はよく分からなかったので、紘一に全て任せる事にした。
紘一からは、くれぐれも一人の時は気をつけるようにと念を押された。
そして、出来れば仲人をしてくれた部長へ今日の事を話しておいた方がいいだろうと言われたので、凪子は明日部長に話す事にした。
ちょっと前までは、普通の夫婦として楽しく暮らしていた夫に対し、これほどまでの嫌悪感を持つなんて…
凪子はかなり憂鬱な気分になる。
そして、自分は本当に良輔の事を愛していたのだろうかと疑問に思えてきた。
良輔が浮気さえしなければ、あのまま仲の良い夫婦でいられたのに…つい最近まではそう思っていた。
しかし今はその考えが間違っているのではないかとさえ思えてきた。
自分は何も悪い事をしていないのに、なんで逃げたり隠れたりしなくてはいけないのだろうか?
凪子は理不尽な思いでいっぱいになる。そしてどんどんマイナス思考へ陥っていた。
その時スマホが鳴った。
静かな室内に突然響いたその音に、凪子の身体がビクッと反応する。
電話は信也からだった。
「もしもし?」
「部屋に電気がついてたから、帰ってるなって思ってさ…今日は大丈夫だった?」
信也が心配して電話をくれたのだと思うと、凪子の疲れた心がジーンと温かくなる。
この感覚は久しぶりだ。
信也と出逢ったばかりの頃、よくこんな気持ちになったのを覚えている。
信也のファッションショーに急遽凪子が代役として出演した頃、凪子は今と同じような気持ちになる事がよくあった。
凪子がまだ新人で担当した仕事でいっぱいいっぱいだった時、信也は今みたいに心配してよく声をかけてくれた。
普段仕事では鬼のように厳しい信也が時折見せる優しさ。信也のそんな一面を見て凪子は淡い恋心を抱くようになる。
しかし信也が凪子に優しくするのは、きっと年の離れた妹に接する感覚なのだろうとも思っていた。
だから過度な期待は抱かないように、常に自分を厳しく律していた。
その時凪子の頭には、一昨日信也が言っていた言葉が蘇ってきた。
凪子が交通事故で入院していた時、信也は仕事をキャンセルして真っ先に駆け付けてくれたと言った。
それは、一体どういう気持ちで来てくれたのだろうか?
妹のような存在の仕事仲間を心配して?
それとも……?
(もしあの時良輔が信也に嘘をつかなかったら? もしあの時信也がひまわりの花束を病室まで持って来てくれていたら? 今頃私はどうなっていたのだろうか?)
そんな思いが頭を過る。
「もしもし、凪子? どうした? 大丈夫か?」
凪子の反応がないので、信也が心配して声をかける。
「あ、ごめん…うん、今日ちょっとね…色々あって…実は会社を出た時、良輔が後をつけて来たのよ」
「やっぱりな…で大丈夫だったのか?」
「うん。駅ビルに逃げ込んだらいなくなったわ」
「困ったもんだな。明日からも気をつけないと」
信也は、凪子を傍で支えてやれないもどかしさにイラついていた。
(あの男……往生際が悪いな……)
そこで凪子が言った。
「仲人をしてくれた良輔の上司に報告するようにって弁護士の先生に言われたの。だから明日言うつもりよ。そうしたら上司から良輔に注意してくれると思うから大丈夫よ」
「うん、それなら少し安心だな。そうだ凪子…ちょっとベランダへ出てみろよ」
信也が突然そんな事を言ったので、凪子は不思議に思う。
「ベランダ?」
「そう」
「うん、ちょっと待って……」
凪子はすぐにカーテンと窓を開け、サンダルを履いてベランダへ出た。
そして前を見てびっくりした。
信也が四階のテラスの手すりにもたれかかり、こちらを見ていたからだ。
信也はスマホを耳に当て、手を振っている。
そして少し照れたような顔をして笑っていた。
「なんだ、そこにいたのね」
「うん、ここなら顔を見て話せるだろう?」
「フフッ、そうね…お隣さんって意外と便利ね」
「これならパパラッチもされないし、我ながらグッドアイデアだな。これで凪子の顔がいつでも見られる」
信也は凪子を見つめながら微笑んだ。
その優しい笑顔を見て凪子はドキッとする。
その時凪子は、勇気を出して気になっていた事を信也に聞いてみる事にした。
「ねえ信也、私が入院していた時病院に駆け付けてくれたって言ってたわよね? それって仕事のパートナーとして来てくれたの? それとも友人として?」
凪子がいきなりそんな質問したので、信也は驚いていた。
しかしすぐに答える。
「どっちでもないかな……」
凪子は予想外の答えに驚く。
「えっ? じゃあどういうつもりで来たの?」
そこで信也はフッと笑った。
「どういうつもりだったんだろうな? あの日たまたま君の会社へ電話を入れたら君が交通事故にあったって聞いたんだ…で、気付いたら病院にいたって訳さ」
その答えが何を意味しているのかわからなかった凪子は、少し困ったような顔をする。
信也はそんな凪子にはおかまいなしに続けた。
「今思えば、あの時俺は凪子に好意を持っていたんだろうなぁ。でもアイツが凪子と交際していると言ったのを鵜呑みにして、あっさりと逃げたんだ」
信也はスマホを耳に当てたまま、真剣な顔で凪子を見つめる。
それは今まで凪子が見た事のない表情だ。
途端に凪子の心臓がドキドキと音を立て始める。
(という事は、もし良輔の嘘がなかったら私達は両想いだったって事?)
凪子の中ではそんな結論に達した。
それから、若干上ずった声で信也に言った。
「逃げないで病室まで来て欲しかったな…」
凪子の言葉を聞き、信也は切ない表情を浮かべる。
「ごめん…あの頃は意気地がなかったんだ…でももう逃げないから」
信也は真っ直ぐに凪子の目を見て言った。
吸い込まれそうなほど澄み切った信也の瞳を見て、凪子はごくりと唾を飲み込む。
そして再び口を開いた。
「ちゃんと捕まえてくれないと、どこかへ逃げちゃうわよ」
「ハハッ、凪子は気が強くてお転婆だからな」
「逃げた後に後悔したって遅いのよ」
「安心しろ。今度は逃げても地の果てまで追いかけるから」
冗談だと分かっていても、なぜか胸が熱くなる。
そして凪子は続けた。
「それにね『想い』はちゃんと言葉にしないと相手に伝わらないのよ。長い付き合いだからなんとなく察してくれるだろうーっていうのは駄目なんだからね!」
「ハハッ、今日はなんだか厳しいな。うん…でも分かったよ、凪子の離婚の件が片付いたら、ちゃんと伝えるから…」
その言葉に、凪子の涙腺がいっきに緩む。
(ダメよ凪子、今は泣いたらダメ!)
凪子は涙が頬を伝わないように、慌てて上を向く。
この日、東京の夜空は珍しく澄み渡っていた。
次の瞬間、夜空を駆け抜けるように大きな星が流れて行った。
「あっ! 流れ星! 見た?」
「ああ。そういや、今日か明日あたりペルセウス座流星群だったな」
「そうなの? 信也詳しいのね」
「いや…朝天気予報で言ってたんだ。って事は、きっとまた流れるな」
そこで二人は、静かに夜空を見上げる。
三分ほど根気よく待っていると、再び星が流線型を描いて夜空を駆け抜けた。
「「あっ!」」
今度は二人同時に声を出す。
「見た?」
「もちろん」
「フフッ、ちゃんと準備していたから、お願い事が出来たわ」
「何てお願いしたんだ?」
「秘密! 言っちゃうと叶わないのよ!」
凪子の言葉を聞いて、信也がクスッと笑う。
「子供みたいだな」
「どうせ子供ですよーだ」
「でもそこがいいんだ」
「えっ?」
凪子はドキッとして思わず声を出したが、信也はご機嫌な様子で夜空を見上げていた。
そして星を眺めながら静かに言った。
「俺はいつでもここにいるから…」
「うん……」
「何かあったらいつでも言え」
「うん…ありがとう…」
信也の優しい言葉に、こらえていた涙が思わず溢れてくる。
自分では平気だと思っていたが、離婚による心のダメージは思っていた以上に心の中を圧迫していた事に気づく。
凪子が涙を手で拭っているのを見て、信也が穏やかに言った。
「全て終わったら俺ん所へ来い」
思わず凪子は顔を上げて信也の顔を見る。
すると、信也はとても優しい笑みを浮かべながら凪子を見つめた。
「え? いいの?」
「ああ…俺はいつでも待ってる」
凪子はさらに頬を伝う涙を両手で拭いながら言った。
「うん……」
「俺がお前を幸せにしてやる…世界中で一番幸せな女にしてやるから…」
「フフッ…そんなキザなセリフ、一体何人の女に言ってきたのよ」
「今日初めて言った…」
「ふーん…なんか嘘っぽい……」
「そっちに行って頭をゴツンとしてやりたい気分だな…」
信也は苦笑いをしながら言う。
すると、凪子も泣くのをやめてフフッと笑った。
それから二人は、とりとめもない話を続けた。
庭の植え込みからは賑やかな虫の音が聞こえ、ほんのり秋の空気が混じった夜風が二人の頬を撫でる。
二人が穏やかに会話を続ける夜空には、二人の想いを繋ぐようにいくつもの星が流れて行った。
コメント
1件
キュンが止まらない。 遠回りしたけど収まるところに収まるという事ですね💞