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放課後の光が沈みきる前、日下部は校門を出た。冷たい風が制服の襟を掠める。ポケットの中ではスマホが震えたまま、誰からの通知も表示しない。
──無力、という言葉が、胸の奥で音もなく繰り返されていた。
「守るって、何だよ……」
誰に向けたわけでもない声が、夜気に溶けた。
遥の怯えた顔が、何度も脳裏に浮かぶ。
あの目──誰かを庇うように、恐れながら、必死に笑おうとする目。
そして、昨夜見た、校門の影に立つ颯馬のあの冷たい視線。
(あいつが“全部”壊してる)
確信にも似た直感があった。
もし放っておけば、遥はまたあの中に引きずり戻される。
言葉ではなく、傷のひとつひとつがそれを物語っていた。
日下部は足を止め、スマホを取り出す。
画面の検索履歴には「颯馬」「〇〇中学」「陸上部」「SNS」──
何度も打っては消した文字が、薄い光の中に滲んでいる。
指が一度だけ震えた。
だが、ためらいはなかった。
(直接、話すしかない)
夜の街を抜け、駅の方へ向かう。
颯馬の通う中学は、その先の坂を上がった住宅街の奥。
日下部の頭には、以前遥がぽつりと漏らした言葉が浮かんでいた。
「……颯馬は、夜遅くまで残ってることが多い。部活とか、知らないけど」
街灯の明かりが少なくなるにつれ、足音がはっきりと響く。
夜風の中、冷たい鉄の匂いがする──工場跡地の前を通り過ぎた時だった。
「……探してんの、俺?」
声がした。
暗がりから現れた颯馬が、コンビニ袋を手に立っていた。
表情は穏やかだが、瞳だけがどこまでも冷たい。
「よぉ、日下部。……わざわざ俺に会いに来たのか?」
日下部は一歩、前に出た。
「遥のことだ」
短く言う。その声は低く、震えていた。
颯馬は笑った。だが、それは喜びではなく、挑発に似ていた。
「へぇ。あいつ、俺の話したんだ?」
「お前が……あいつを、どうしてる」
「どうしてるって?」
颯馬は袋の中から缶コーヒーを取り出し、プルタブを鳴らした。
「家族仲の話? それとも“もっと深い”ほう?」
日下部の拳が、静かに握られる。
「……あいつ、怯えてる」
「そりゃそうだろ。弱いから」
缶を傾けながら、颯馬はまるで当たり前のことのように言う。
「俺が教えてやってんだよ。生き方を」
「それが“教える”って言えるか」
「何もしないお前よりはマシだろ」
その一言で、日下部の肩がびくりと動いた。
「お前、何度も見てたはずだ。あいつが壊れていくのを。
でも、何もしなかった。違うか?」
沈黙。
夜の空気がぴんと張り詰める。
颯馬の笑みがゆっくりと消え、代わりに無表情が浮かんだ。
「俺があいつをどう扱おうが、家の中のことに他人が口出すなよ」
「“家”って……お前ら、家族なのか?」
「そうだよ。だから許される。……お前よりも、ずっとな」
日下部は息を呑んだ。
その目の奥に、言葉では届かないものが渦巻いている。
怒りと、恐怖と、どうしようもない現実。
颯馬が一歩近づく。
「忠告しとくよ。──これ以上、遥に関わるな」
「……断る」
「へぇ」
颯馬は空の缶を足元に落とし、靴の先で踏み潰した。
その金属音が夜の静寂を裂く。
「じゃあ、お前の番だな」
次の瞬間、日下部の肩を押すように、颯馬の手が伸びた。
力は強くない。それでも、拒絶の意思だけがはっきり伝わる。
「遥を守りたいなら……まず、自分の命守れよ」
低く笑いながら背を向け、颯馬は闇の中に消えていった。
残された日下部の手は、震えていた。
息がうまく吸えない。
──ただ、胸の奥に一つの確信だけが残っていた。
“あいつを、このままにしておいたら、もう戻れない”。