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放課後の相談室は、空気が冷たく澄んでいた。窓の外では風がカーテンを揺らし、静かに日が傾いていく。
机の向こうで、男子がぽつりとつぶやいた。
「……“自分”って、なんなんでしょうね。
本当の顔って、どれなんですかね」
彼は俯いたまま、指先でノートの端を折り曲げていた。
何度も折っては、開いて。
その手つきに、焦りにも似たものが滲んでいた。
「人と話すとき、笑うとき、何か言うたびに──
“こうすれば好かれるかな”とか、“変だと思われないかな”とか、
そんなことばっか考えてて。
気づいたら、何が本音だったのか、わからなくなってました」
遥はしばらく黙っていた。
その沈黙を、風の音が埋める。
「……オレも、そうだよ」
男子が顔を上げる。
遥の声は静かで、どこか遠くから響くようだった。
「“本当の自分”なんて、見せたことない。
見せても、誰も気づかない。
だから、いつの間にか隠すのが普通になった。
気づいたら、何を隠してたのかすら、わからなくなってた」
男子の唇がわずかに動いた。
「……じゃあ、どうして生きてるんですか。
そんなの、苦しいだけじゃないですか」
「苦しいよ」
遥は窓の外を見た。
冬の夕空に、白い雲がひとつ浮かんでいた。
「でも、いちばん怖いのは、“苦しくもない”って思うこと。
何も感じなくなると、自分がいなくなる気がするんだ」
男子の表情が少し揺れる。
遥は続けた。
「“本当の自分”って、多分、固定された何かじゃない。
毎日ちょっとずつ変わってくし、誰かと話すたびに揺れる。
だから、“今の自分が偽物っぽい”って感じるのも、
生きてる証拠なんじゃないかと思う」
「……証拠?」
「うん。何かになろうとしてる途中の証拠。
誰にも見せられないぐちゃぐちゃな部分も、
本当はちゃんと“自分”の一部なんだと思う」
男子は黙って頷いた。
その頷きには、少しの苦しさと、ほんの少しの救いが混ざっていた。
「……オレ、ずっと“ちゃんとした人間”にならなきゃって思ってました。
でも、どんな顔してても“違う”って言われるのが怖くて」
「“ちゃんと”って誰が決めるんだろうな」
遥がぼそっとつぶやく。
「周りに合わせるたびに、自分が薄くなっていく気がしてた。
でもさ、薄くても、残ってるなら、それでいいと思う」
沈黙。
そのあと、男子が小さく笑った。
「……なんか、少しだけ息できました」
「それでいいよ」
遥もわずかに笑った。
「息ができる場所が、たぶん“自分の一部”なんだ」
男子は立ち上がり、鞄を持つ。
ドアの向こうへ消える前、振り返って言った。
「……ありがとうございます。
なんか、“いなくなってない”って思えました」
「うん」
遥の声は低く、でも確かだった。
「消えたように見えても、ちゃんと残ってる。
それが“今の自分”だよ」
風がまた、カーテンを揺らした。
誰もいない教室に、夕陽の名残が淡く滲んでいた。