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離婚協議の最終確認は、橘の事務所で行われた。
遼介側の弁護士も同席し、財産分与、慰謝料、共有財産から不貞へ使われた支出の精算、今後の接触方法を確認する。
久世記念病院の債務について、私は一切の責任を負わない。
理事就任への同意も存在しない。
全て書面に明記された。
遼介は疲れ切った顔で、署名欄を見ていた。髪は伸び、シャツには皺がある。
「最後に、二人だけで話せないか」
橘が私を見る。
「応じる義務はありません」
「ここで話します。先生方にも残ってもらってください」
遼介は唇を噛んだが、それ以上は拒めなかった。
「千紘だけが本物だった」
最後に何を言うのかと思っていた。
でも、最初に出てきたのは謝罪ではなかった。
やっぱり遼介は、私がどれだけ傷ついたかより、自分にとって誰が特別だったかを伝えたいのだ。
「真帆ちゃんも莉央ちゃんも沙耶も、俺には逃げ場だった。最初に愛したのも、結婚したいと思ったのも君だけだ」
「本物なら、何をしても最後には戻ってくると思った?」
「君なら理解してくれると」
「それを、戻ってくると思っていたと言うのよ」
両手を組んだ。
「俺は変わる。治療も受ける。女性との連絡も切る」
「真帆の子とは?」
「認知して、養育費を払う。面会についても相談する」
「莉央へは?」
「流産に関する必要な補償をする」
「沙耶さんへは?」
「弁護士を通す」
「全員を片づけて、私だけ元へ戻すの?」
「片づけるなんて言ってない」
一人ずつ名前を挙げても、口調は事務処理そのものだった。
認知する。払う。弁護士を通す。
遼介にとっては、女たちとの関係を片づければ、私との結婚だけ元へ戻せるらしい。
「俺が何者でもなかった頃、支えてくれたのは君だ。服も眼鏡も、仕事への向き合い方も変えてくれた」
「覚えてる」
「俺たちには、ほかの女にはない歴史がある」
「過去は否定しない。あの頃のあなたを愛したことも、支えたことも後悔していない」
遼介の瞳へ希望が宿る。
「でも、今のあなたと生きる未来は選ばない。私が選んだ服を着て、私の親友と妹へ近づいた。それでも、あなたの服を選んだことが間違いだったとは思わない」
「なら、もう一度」
「見た目が変わったから裏切ったんじゃない。大切にされても、自分の選択で裏切った。それが分かったの」
「俺を変えた責任はないのか」
「あなたは物じゃない。何をするかは自分で決めたでしょう」
「榊原を選ぶのか」
「今は誰も選ばない」
「好きなんだろう」
「あなたとの離婚に、彼は関係ない」
「医師でもないのに博士号を持って、海外で評価されている。君は、ああいう男がいいんだろう」
「また比較するの?」
「俺は二浪して、父親に責められ、学生時代を失った。結婚後に初めて女性から求められた。少しくらい人生を取り戻したかった」
「失った学生生活と、私の妹を妊娠させたことは繋がらない」
「君には分からない」
「分からない。でも、理解できないことを許す義務もない」
「協議が成立しなければ、調停へ進みます」
橘が署名欄を示すけれど、なかなかペンへ手を伸ばさなかった。
「自宅は、君が住めばいい」
「売却して残債を清算し、取り決めどおり分ける」
「償いとして渡す」
「莉央を寝室へ入れた家を、好意の形で受け取らない」
遼介の指が、自分の襟元へ触れた。
シャツの襟が片方だけ内側へ折れている。
「千紘。これ、直してくれないか」
「自分で直して」
「君がやった方が早い」
「早いことと、私がするべきことは別」
「最後くらい」
「最後だからしないの」
以前なら、会話の途中でも立ち上がっていただろう。
スマートフォンの黒い画面を鏡にして、襟へ手を伸ばした。何度か失敗し、ようやく形を直す。
「君がいなくなったら、俺は何も残らない」
「医師免許も、経験もある」
「父親の息子で、君の夫だった。それがなくなったら、俺が何者か分からない」
「これから、自分で決めて」
「君は簡単に言う」
「私にも言ったでしょう。一人で何でもできるって」
「一人でできる人間へ、何もしなくていいという意味じゃなかった」
「今になって分かったの?」
「遅かったか」
「遅かった」
可哀想だとは思った。
愛していた人が、自分の選択で崩れていく姿を見ても、気分が晴れるわけではない。むしろ、昔の遼介を知っている分だけ苦しかった。
でも、可哀想だから一緒に生きることはできない。
同情と、もう一度妻になることは別だった。
「俺が君を愛したことまで、嘘だったと思うのか」
「愛した時期はあったと思う」
「なら、もう一度だけ」
「愛していた事実は、裏切った事実を消さない。一度目を大切にできなかった人へ、二度目を渡す義務はない」
長い沈黙のあと、ペンを取った。
署名欄へ名前を書く手が震えている。
「これで、本当に終わりか」
「夫婦としては」
「もう会えない?」
「必要な手続きは弁護士を通して」
署名済みの書類を受け取り、立ち上がった。
「さようなら、遼介」
明日、離婚届を提出する。
姓を高瀬へ戻す。
久世千紘ではなく、高瀬千紘。
書類へその名前を書いた瞬間、胸の奥が少し震えた。
結婚前へ戻るわけではない。傷つく前の私にも戻れない。
それでも、父と母から受け取った名前で、ここから先を生きていく。
白波 灯
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鬼霧宗作
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コメント
1件
うわあ…第三十一話、読み終わったよ。タイトルからして覚悟してたけど、やっぱり胸がぎゅってなった。 「愛していた事実は、裏切った事実を消さない」って千紘の言葉、すごく刺さった。愛した過去を否定しない強さと、それでも未来を選べない現実。どっちもちゃんと持ってて、だからこそ「さようなら」に重みがあったんだと思う。 遼介が自分で襟を直すシーン、千紘が直さなかったのが象徴的でゾッとした。もう彼の「世話をする女」じゃないって、静かな拒絶だった。 最後、高瀬千紘に戻るところで、新しく始める覚悟が伝わってきたよ。お疲れさまって言いたい気持ちと、ここからまた応援したい気持ちでいっぱいです🌙