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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
離婚後、職員証と院内システムの姓を高瀬へ戻した。
最初に新しい名札を着けた朝、何人かの同僚から事情を尋ねられた。
「私生活上の変更です。診療体制に影響はありません」
それ以上は説明しなかった。
患者から「先生、名字が変わったんですね」と言われた時も、「はい」とだけ答えて診察へ戻る。
全員へ事情を説明し、分かってもらわなくても仕事は続けられた。
久世の姓を外しても、患者も役職も失わなかった。
あれほど怖かったのに、周囲は数日もすれば新しい名札へ慣れていく。
世界は、私の離婚を中心に回ってなんていない
少し寂しくて、同時にほっとした。
離婚が成立して一か月後、慧から話があると言われた。
超音波検査室の業務を終え、記録を保存したあとだった。
「来月、アメリカへ戻ります」
「戻る?」
「以前勤めていた胎児医療センターです。共同研究の責任者として正式に声が掛かりました」
「いつ決まったんですか」
「受けると決めたのは半年前です」
私の離婚より前だった。
「言わなかったんですね」
「先生の決断へ、僕の予定を混ぜたくなかったので」
「告白したのに?」
「告白したからこそです。僕が去ると知れば、返事を急ぐ材料になる可能性がある」
「急がなかったと思います」
「そうでしょうね。それでも、使いたくなかった」
慧は、私の返事を待つために自分の人生を止めてはいなかった。
私が選ばなくても、仕事を選び、先へ進む。
当たり前のこと。
分かっているのに、もう同じ職場にはいないのだと思うと、胸の奥が少し寂しくなった。
その寂しさが何を意味するのか、まだ自分でも分からなかった。
「離婚は成立したと聞きました」
「はい」
「お疲れさまでした」
「それだけ?」
「何を期待していますか」
「……分かりません」
告白をもう一度してほしいわけではない。たぶん。
それなのに、何も変わらない態度を見ると落ち着かない。
離婚が成立したら、何かが変わると思っていたのは私の方だったのかもしれない。
「以前の話は、離婚が成立するまで持ち出さないと言いました」
「成立しました」
「先生は今、僕と新しい関係を始めたいですか」
すぐには答えられないでいると、慧は僅かに目を細めた。
「答えが出ていないなら、僕から迫るつもりはありません」
「アメリカへ行けば、会えなくなるかもしれない」
「医療の世界は狭いです」
「それでも」
「会いたいと思った時に連絡してください」
待っているとは言わない。
連絡を絶つとも言わない。
「僕は先生を好きですが、返事を待つために仕事を断りません。先生にも、僕へ返事をするために進路を決めてほしくない」
「厳しいですね」
「同じ場所で待ち続けると言う方が、優しいですか」
「いいえ」
「なら、自分の行きたい場所を選んでください」
慧らしい言葉に、なぜか泣きそうになる自分がいる。
「先生が日本に残っても、別の国へ行っても、それで僕の好意が侮辱されたとは思いません」
「寂しくないんですか」
「寂しいです」
「それでも、何もしない」
「先生は離婚したばかりです。今ここで距離を詰めれば、僕自身が後悔します」
自分の好意より、私が何を選べる状態かを見ている。
「出発はいつですか」
「来月三日です」
「見送りに行っても?」
「仕事がなければ」
出発までの一か月、私たちは仕事上の予定だけを共有した。
二人きりの送別会も、空港への見送りも、慧からは求められなかった。
最終勤務日、彼は後任者のために分厚い引継書を残した。画像保存の規則、異常所見の報告経路、機器ごとの癖。最後の頁まで、私宛の私的な言葉はない。
引継書のどこにも、私だけへ向けた言葉はなかった。
少し寂しい。でも、それでいいとも思えた。
慧は仕事を、好意を伝えたり、私を縛ったりする道具にはしない人だった。
だから、検査室を出る前に私から尋ねた。
「海外でも、連絡していいですか」
「もちろん」
「仕事以外でも?」
「高瀬先生が望むなら」
「あなたからは?」
「必要な用事があれば。返事を迫る連絡はしません」
「本当に約束を守りすぎです」
「信頼を失うよりはいい」
私は彼の連絡先を消さなかった。
すぐ答えを返すためではない。
自分の人生を決めたあと、もう一度話したいと思った時のために残した。
出発の日、周産期センターの職員とともに病院のロビーで見送った。
花束と記念品を受け取った慧が、最後に私の前へ来る。
「高瀬先生」
「まだ姓に慣れません」
「僕は、そちらの方が似合うと思います」
「どういう意味ですか」
「誰かの家へ所属するためではなく、ご自身で選び直した名前だからです」
胸が熱くなる。
「これまで、ありがとうございました」
「こちらこそ」
慧が一瞬、手を伸ばしかけて止めた。
私は自分から手を差し出し、握手だけを交わした。
「元気で」
「先生も」
振り返らず、病院を出ていった。
その夜、帰宅すると、郵便受けに大学からの封書が入っていた。
海外胎児医療研修プログラムの募集案内。
一年半、胎児超音波、遺伝カウンセリング、多職種連携を学ぶ派遣制度。
候補となる三施設の中に、慧が戻ったアメリカのセンターも含まれていた。
案内を机へ広げた。
慧を追いかけたいから応募するのか。
それとも、自分が学びたいから行くのか。
たぶん、気持ちは綺麗に一つには分けられない。
会いたい気持ちもある。学びたい気持ちもある。
大切なのは、慧がいなくても選ぶ場所なのか、自分へ嘘をつかず確かめること。
締切まで、あと一か月だった。
コメント
1件
ううん…、読んでて胸がぎゅっとなった🥀 慧、ほんとに一貫してるよね。「信頼を失うよりはいい」って言葉、めっちゃ刺さった。自分の気持ちを優先しないで、相手のタイミングをちゃんと待つって、すごく難しいことだと思うの。 高瀬先生が自分から「海外でも連絡していいですか」って聞けたのも、小さな一歩だけど大きな勇気だよね。あと、研修プログラムの案内が届くラスト、運命っぽくてドキドキした…🌙 二人の距離感、すごくリアルで素敵だったよ。続きが気になる〜!