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第9話:最後の空席(からせき)
浮遊列車《ライドフロート環状第3便》は、
毎日、都市《セリアノア》の空を円形に回っていた。
その最後尾・第7車両の一番奥、
13番座席だけが毎日“使用中”と表示されていた。
だが、その席に“座っている人間”は、誰もいない。
調査を命じられたのは、交通記録保全官《トカ・エレク》。
16歳、くせ毛のように波打つ風灰の髪、
目元は月光に淡く反射する青磁色、
制服は《アスモン社》製の可変風流繊維。
歩くと軽やかに布が膨らみ、気流をまとって身体が揺れる。
浮き方が安定している者ほど、信頼される社会で、
トカは“理想的な浮力”を持つと評されていた。
彼は空席の記録泡を調べた。
泡は確かに“毎日誰かが着席し、移動し、離席している”と記録している。
だが、映像泡には“誰も映っていない”。
《フロートル社》の泡追跡装置でも、残像は確認できなかった。
「泡記録に記されるのに、実在しない」
「それは“重みだけが存在している”ということだ。」
そう語るのは、泡水殿の月官《ヴィナ》。
彼女の衣には、地球文字で「CAPS」「LOCK」「NUM」と書かれた紋様が祀られていた。
かつて“固定と制限”を意味した言葉は、今や“揺れぬ意志”の象徴だった。
トカはあえて、その席に座る決意をする。
列車が夜の《星祈り区》を通過する時間を選んで。
月が高く昇る時間、星が最もよく見える地点。
彼は空席13番に、腰を下ろした。
その瞬間、彼の中で何かが“抜けた”。
名前ではない。
記憶でもない。
だが、浮き上がらないものが確かにあった。
列車の中で風が逆流し、泡が浮かずに沈んだ。
「空の中で、沈む感覚——」
それは、誰かが**その座席で何かを“置いていった”**証拠だった。
列車が一周し、夜が明ける。
トカが席を立つと、13番座席は“未使用”に戻っていた。
だが、彼の持ち物の中から、ひとつ泡のラベルが消えていた。
どの記録かは、もう思い出せない。
後日、泡記録には新たなデータが加わっていた。
使用者:トカ・エレク
使用記録:あり
気流浮力:若干の低下
感情記録:不明
総評:空席に近づいた者は、座らないほうがいい。
空席は今も“使用中”と表示され続けている。
星は増えていた。
今夜は、星沈めの儀式が行われる。
トカは祈らなかった。
祈れば、何かが消える気がしたからだ。