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「……日下部くん。忘れたいことがあるんです」
相談室に入ってきた男子は、カーテンの影に沈むように腰を下ろした。
「昔の、嫌な思い出。時間がたてば薄れると思ってたけど……
ふとした瞬間に鮮明に思い出して、息が詰まるんです」
日下部は腕を組み、黙って聞いていた。
「逆に……覚えていたいのに、思い出せないこともあって。
楽しかったはずの小学校の遠足とか、友達と笑ってた瞬間とか……
“あれ、どんな顔してたっけ”って考えると、何も浮かばないんです」
男子は苦笑いした。
「人間って勝手ですよね。忘れたいのは残って、残したいのは消えてく。
……なんでなんですかね」
日下部はしばらく視線を宙に泳がせ、それから低く言った。
「……俺もあるよ。思い出したくねぇのに勝手に浮かぶやつ。
忘れたくなくても、薄れていくやつ」
男子が顔を上げる。
「……どうしてます?」
「どうもしねぇ」
即答だった。
「忘れられねぇ記憶は、勝手に残る。忘れちまう記憶は、勝手に消える。
……抗おうとしても、人間の頭なんて言うこと聞かねぇ」
男子は戸惑ったように眉を寄せた。
「じゃあ、もうどうしようもないってことですか?」
「いや。だからって全部無駄なわけじゃねぇ」
日下部は机に片腕を置いて、少し声を落とした。
「消えた記憶でも、ちゃんと生きてた証拠は残ってんだ。
思い出せなくても、笑ってた時間があったことは変わんねぇだろ。
逆に、嫌な記憶が残ってるのも……それだけ必死に生きてきた証拠だ」
男子は息を止めたように黙り、やがてゆっくり口をひらいた。
「……証拠、か」
「忘れたいことも、思い出せないことも、両方背負って生きるしかねぇ。
でも、それを抱えながら“今”をどうするかは、お前次第だろ」
夕陽が差し込み、男子の影が長く伸びた。
彼は小さくうなずき、立ち上がる。
「……少しだけ、歩けそうな気がします」
日下部は返事をせず、窓の外に視線をやった。
校庭から、部活の掛け声がかすかに響いていた。