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放課後のチャイムが鳴り終わらないうちに、空が泣き出した。
校門を出た瞬間、最初の雨粒が制服の肩に落ちて、じわりと暗い色を広げていく。
「……最悪だ」
傘を持ってきていない。天野朔は顔をしかめた。今朝は晴れていたし、天気予報は曖昧な曇りだったから、すっかり油断していた。
周囲の生徒たちは慌てて傘を広げたり、校舎に戻ったりしている。朔は鞄を頭の上にかざして、少しでも濡れないように足早に歩きだした。
そのとき——。
黒い影が、朔の視界に滑り込んだ。
濡れた空気の中で、傘が静かに広がる音がした。
「……濡れる」
低く、素っ気ない声。
振り返ると、神崎晴弥が無表情で傘を差し出していた。
「え、あ……」
言葉がうまく出てこない。
クラスメイト。ただ、それだけの関係。
特別話したこともない相手だ。
「ほら。早く来いよ」
そう言って、晴弥は朔の肩に傘の影を寄せてくる。自然と二人の距離が詰まる。
雨が傘を叩く音が、急に近くなる。
「……ありがとう」
言うと、晴弥はわずかに視線をそらした。
「うるさい」
素直じゃない。そんな印象がふと胸をかすめた。
でも、彼の手に握られた傘の柄は、朔に雨を一滴も触れさせまいと、少し傾いている。
徒歩の帰り道。二人の靴音が、水たまりを踏んで同じリズムを刻む。
沈黙。
でも、居心地の悪さは不思議となかった。
「……天野の家、どこ」
「そこ、曲がってすぐ」
最低限の言葉。ぶっきらぼう。
それでも、朔は気づいてしまう。
晴弥の歩幅が、さりげなく朔に合わされていることに。
指先が、ほんの一瞬、触れた。
朔はびくりと肩を揺らし、ほんの少しだけ傘の反対側へ体をずらした。
それでも距離は変わらない。
晴弥は逆側の手で傘を持ち替え、また朔が濡れないように位置を調整した。
どうして、そんなに——。
聞けない。
聞いてしまえば、壊れてしまいそうで。
「……あ」
すぐそこの曲がり角。家はすぐそこだ。
別れの時間が近づくと、ほんの少し残念だと気づいてしまう自分がいる。
「ここでいいよ。ありがとう」
「……」
晴弥は何も言わない。
代わりに、握っていた傘を朔の頭上に置いたまま、すっと手を離した。
「貸しとく」
「いや、でも……」
「返せばいい」
それだけ言って、晴弥は雨の中へ歩き出す。
傘も差さずに。ずぶ濡れになるのが見えているのに。
「待って! 神崎!」
朔は慌てて名前を呼んだ。
晴弥が、振り返る。
「……名前、知ってたんだ」
「だって、クラス……」
言い訳めいた言葉は雨に紛れる。
晴弥は、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ——天野。明日」
呼ばれた自分の名前。
それだけで、胸が熱くなる。
返事をしようとしたけれど、声が出なかった。
代わりに、握りしめた傘の柄が汗で滑りそうになる。
「またな、天野」
晴弥は背を向け、雨の向こうへ消えていった。
その後ろ姿に、朔は言いようのない感情を抱く。
傘の下で、一人。
雨音がやけに優しく耳に届いた。
(……明日、返す。ちゃんと)
胸の奥に、小さくて確かな約束が落ちてきた。