次の日。
天野朔は、通学路の分かれ道で立ち止まっていた。
(……早く来すぎた)
家を出る時間をわざと少し早めた。
理由なんて、自分でもわかっている。
けれど、それを認めたくなくて、鞄の持ち手をぎゅっと握る。
昨日の傘が手元にある。
黒くて大きい、晴弥の傘。
どう返そう。
教室で不自然に?
朝いちばんで?
それとも帰り?
そもそも彼は——来るのか。
傘を持たずに濡れて帰ったくせに、今日も持っていない気がしてならない。
無愛想だが、妙なところで大胆で、そして……少し優しい。
「おい」
突然肩を軽く叩かれて、朔は跳ねるように振り返った。
そこに立っていたのは、神崎晴弥だった。
相変わらず無表情で、視線も朔ではなく、通学路の先。
「ここで何してんの」
「べ、別に……ただ」
「……返す気なかった?」
淡々と刺す言葉。
図星すぎて、朔は一瞬だけ言葉を失った。
「返すよ! ほら!」
朔は傘を差し出した。
けれど晴弥は受け取らない。少し顎で空を指す。
雲は重く垂れ込めて、今にも落ちてきそうだ。
「また降る」
「え?」
「……持ってろ」
視線は合わせないまま、当然のように言う。
そこに迷いは一切ない。
「でも……」
「返すのは降ってない日にしろ」
朔は口を引き結んだ。
「それ……絶対返せないやつじゃん」
ぽつりと呟いた一言。
晴弥の眉がほんの僅かに動いた。
「なんだそれ」
「だって……お前、きっと明日も傘持ってないだろ」
その瞬間――
晴弥が朔を見る。
正面から、まっすぐに。
「……じゃあ、晴れの日に言えよ」
「言うって……何を?」
「傘、返したいですって」
曇天の下、どこか不器用なやりとり。
無愛想。
でも、根っこがひどく素直で、真っ直ぐ。
そんな言葉が、自然と浮かんだ。
けれど、口には出さない。まだ言えない。
「ほら。行くぞ」
歩き出す晴弥の隣に、朔は少しだけ遅れて並ぶ。
そのとき——
また指先が触れた。
「あ……」
朔が反射的に引こうとすると、晴弥の手がそっと押し返してきた。
「逃げんな」
短い。
淡々とした声。
だけど、確かにそこに感情があった。
朔の心臓が大きく跳ねる。
小さな指先一つで、世界の温度が変わるなんて思っていなかった。
傘は今日もない。
代わりにこの距離が、傘の役割を果たすかのように近かった。
校門が見えてきた頃、空から一滴、また一滴と落ちてくる。
「ほらな」
晴弥が無表情のまま傘を開いた。
昨日と同じ光景。
でも、昨日とはまるで違う意味を帯びている。
(……やっぱり、返せない)
朔はまだ気づかないふりをした。
降り出した雨が、隠してくれるうちに。
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