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第8話 団子峠
峠道は、思ったより長かった。
上っても、
上っても、
まだ先があった。
木々の間を抜ける風が、
汗を少し冷やしていく。
磁馬は肩掛け鞄を抱え直した。
鞄の中には、
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
一つ。
二つ。
三つ。
ある。
足もとは土の道だった。
草履の跡。
馬の跡。
荷車のわだち。
昨日の雨が残した小さなくぼみ。
峠は、
人が通った形をよく覚えていた。
磁馬は途中で何度も立ち止まった。
振り返ると、
町が遠くに見える。
前を見ると、
道はまだ曲がっている。
「いいなあ」
そう言ったけれど、
声には少し疲れが混じっていた。
腹も減っていた。
その時、
風に乗って甘い匂いが来た。
焼けた餅の匂い。
甘だれの匂い。
湯の匂い。
磁馬の足が、少しだけ早くなる。
峠の曲がり角を抜けると、
小さな茶屋があった。
軒下に腰掛けが並び、
店先では団子が焼かれている。
煙が細く上がり、
峠の風にほどけていた。
「休んでいくかい」
店の奥から、
灰色の着物を着た男が声をかけた。
茶色の前掛け。
ゆっくりした目。
手には団子の串。
磁馬は深くうなずいた。
「休みます」
「疲れた顔だ」
「峠が長い」
男は小さく笑った。
「峠はだいたい長い。惣吉だ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だな」
「よく言われる」
磁馬は腰掛けに座った。
座った途端、
足がやっと地面に戻ってきた気がした。
店の横から少女が出てきた。
髪を後ろで結び、
茶色の前掛けをつけている。
手には水の入った椀。
「先にどうぞ」
「ありがとう」
磁馬は水を受け取った。
一口飲む。
冷たすぎず、
ぬるすぎず、
峠の途中にちょうどよかった。
「名前は?」
磁馬が聞くと、少女は笑った。
「おきぬ」
「いい水」
「水をほめる人、初めて」
「水は大事」
おきぬは少し照れたように笑い、
団子の前へ戻った。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
まず、
茶屋を描く。
軒。
腰掛け。
団子を焼く手。
湯気。
峠道を上ってくる旅人。
それから、
店先の煙。
煙は難しい。
線にすると硬くなる。
描かないと消える。
磁馬は煙の周りを描いた。
煙が触れている風。
煙の向こうに見えるおきぬの横顔。
煙で少しかすむ惣吉の手。
おきぬが団子を皿に乗せて持ってきた。
「焼きたて」
皿の上には団子が三本。
甘だれがつやつやしている。
磁馬はしばらく見た。
「食べないの?」
おきぬが聞く。
「描きたい」
「冷めるよ」
「食べる」
磁馬は一本持ち、
一口かじった。
やわらかい。
少し焦げている。
甘だれが舌に残る。
目が細くなる。
「うまい」
惣吉が店の奥でうなずいた。
「うまいなら、峠を越えられる」
「もう一本食べたら、もっと越えられる」
おきぬが笑った。
「じゃあ食べて」
磁馬は二口目を食べた。
それから、
団子を描いた。
食べる前の団子。
一口減った団子。
串に残るたれ。
皿の端に落ちた小さな粒。
旅の途中で食べるものは、
店の中だけで終わらない。
疲れた足。
乾いた喉。
遠くから来た風。
これから越える道。
全部が味に混ざる。
磁馬はそう思いながら、
ゆっくり線を引いた。
峠茶屋には、
旅人がぽつぽつ来た。
荷を背負った男。
親子連れ。
足をさすりながら座る老人。
おきぬは水を出し、
惣吉は団子を焼く。
磁馬はその動きを見ていた。
茶屋は、
峠の途中にある小さな止まり木みたいだった。
みんな一度止まる。
息を整える。
団子を食べる。
そしてまた歩いていく。
その時、
磁馬の膝の上から、
小さな包み紙が落ちた。
団子の串を包んでいた紙だった。
風が吹く。
包み紙は腰掛けの下へ入り、
そこからさらに板の隙間へ滑った。
磁馬は固まった。
おきぬがすぐに気づく。
「落ちた?」
「落ちた」
「紙?」
「紙でも」
磁馬はしゃがんだ。
板の下は暗い。
包み紙は見えそうで見えない。
「探す」
惣吉が店の奥から言った。
「そのままでも、あとで掃くぞ」
磁馬は首を振った。
「見つかるまで帰らない」
おきぬは目を丸くした。
「紙一枚で?」
「紙一枚でも」
惣吉は少し黙り、
それから細い竹串を渡した。
「なら、これを使え」
「ありがとう」
磁馬は竹串を板の隙間へ入れた。
かさ。
何かに触れる。
でも包み紙は奥へ逃げる。
おきぬが反対側へ回った。
「こっちにも隙間あるよ」
磁馬は腰掛けを少しずらす。
惣吉も手を貸した。
旅人の一人が笑う。
「団子より包み紙が大事かい」
磁馬は真剣な顔で答えた。
「使ったものだから」
その声を聞いて、
旅人はそれ以上笑わなかった。
おきぬが床下をのぞく。
「あ、見える」
「どこ?」
「その木の向こう」
磁馬は竹串を慎重に動かした。
包み紙が少し出てくる。
風がまた吹く。
今度はおきぬがすばやく手で押さえた。
「捕まえた」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
包み紙は少し土で汚れていた。
でも破れていなかった。
磁馬はそれを折りたたみ、
茶屋のごみ入れへ入れた。
「ここで出たものは、ここへ」
惣吉はそれを見て、
少しだけ目を細めた。
「律儀だな」
「そう決めてる」
おきぬは笑った。
「変だけど、いい変さ」
磁馬は腰掛けに戻った。
団子は少し冷めていた。
それでもうまかった。
「冷めても、うまい」
おきぬが得意そうにした。
「でしょう」
磁馬はまた絵を描いた。
今度は、
包み紙を探す三人も描いた。
腰掛けの下をのぞく自分。
竹串を渡す惣吉。
手で押さえるおきぬ。
その上に、
団子の湯気と、
峠を越えていく旅人を重ねた。
絵の中で、
団子の湯気が少しずつ薄くなった。
旅人が来る。
座る。
食べる。
立つ。
また歩く。
茶屋の時間は、
峠道より少しゆっくりだった。
昼を過ぎると、
風が変わった。
峠の向こうから、
少し冷たい匂いが来る。
磁馬は腰掛けから立ち上がり、
道の先を見た。
まだ越えていない坂がある。
けれど、
すぐに歩き出す気にはなれなかった。
おきぬが言った。
「もう一本食べる?」
磁馬は団子を見た。
「食べる」
惣吉が笑った。
「よく食うな」
「描くと腹が減る」
「休んでも減るのか」
「減る」
おきぬはまた団子を焼いた。
磁馬は二皿目を食べた。
今度は、
ゆっくり味わう。
最初の皿は疲れに食べた。
二皿目は峠に食べた。
そんな感じがした。
絵の中では、
一皿目の団子と二皿目の団子が並んでいる。
一皿目は湯気が早く消えた。
二皿目は少し長く残った。
おきぬがのぞき込む。
「団子が減ってる」
「食べたから」
「絵なのに」
「食べた時間が入った」
おきぬはしばらく見ていた。
「これ、茶屋に置いていってほしいくらい」
磁馬は小さな紙を二枚取り出した。
一枚には、
団子を焼くおきぬを描いた。
袖をまくった腕。
茶色の前掛け。
串を返す手。
風に揺れる髪。
もう一枚には、
店先で団子を見ている惣吉を描いた。
灰色の着物。
茶色の前掛け。
静かな目。
煙の向こうの峠道。
磁馬はそれを二人へ渡した。
「これ」
おきぬは両手で受け取った。
「くれるの?」
「包み紙を探してくれたから」
「それで絵をもらえるなら、いくらでも探すよ」
惣吉は絵を見て、
ゆっくりうなずいた。
「店に飾る」
おきぬの絵では、
団子の煙がほんの少し揺れていた。
惣吉の絵では、
峠道を小さな旅人がゆっくり上っていた。
惣吉はそれを見て、
少しだけ笑った。
「うちの茶屋らしい」
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
団子の包みはもうない。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
おきぬが小さな包みを差し出した。
「道中に。団子、一本だけ」
磁馬は目を丸くした。
「いいの?」
「また腹が減るでしょ」
「減る」
「ほら」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
惣吉が言った。
「今度は包みを飛ばすなよ」
「かなり気をつける」
「かなり、か」
おきぬが笑った。
磁馬は峠道へ戻った。
茶屋を振り返る。
軒下。
煙。
腰掛け。
団子を焼くおきぬ。
腕を組む惣吉。
その全部が、
峠の途中に小さくまとまっていた。
磁馬は手を振った。
おきぬが大きく振り返す。
惣吉は片手だけ上げた。
歩き出す。
腹は少し重い。
でも足は来た時より動いた。
鞄の中で、
団子峠の絵がゆっくり時間を進めていた。
旅人が来る。
水を飲む。
団子を食べる。
包み紙が飛ぶ。
みんなで探す。
また団子を食べる。
旅人が去る。
峠道はまだ続く。
でも、
休んだ場所があると、
道は少しやさしくなる。
磁馬は団子の包みを鞄の奥へしまい、
留め具を確かめた。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は飛ばない。
峠の風は、
甘だれの匂いを少しだけ背中に残していた。
於田縫紀
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コメント
1件
みぅ🤍🥀です。 第8話「団子峠」、すごく好きな回でした…。 峠の長さとか、茶屋の煙の描き方とか、磁馬くんが「使ったものだから」って包み紙を探すところ、全部が優しくて切なくて。 おきぬと惣吉さんとの距離の縮まり方も自然で、団子の一本一本に時間と想いが詰まってる感じがしました。 「休んだ場所があると、道は少しやさしくなる」って言葉、胸に沁みました…。 次も楽しみにしてます🌙