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「何……してんだよ」
情けないことに、ノンストップで八階まで駆け上がって、俺は息が上がっていた。汗で濡れたワイシャツが背中に張り付いて気持ちが悪い。
俺はネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを一つ外した。
観光ビルのエントランスに入った瞬間、侑からの着信に気が付いた。侑の指示で八階まで階段を駆け上がり、咲のいる秘書室に誘導された。
「咲を見つけた。連れて出るよ」
俺は侑に伝えて、スマホをスーツのジャケットの胸ポケットに滑らせた。
「なん……で——」
咲は俺が秘書室に入ったことにも気が付かず、夢中でキーボードを叩いていた。突然声をかけられて、相当驚いたようで、声の主が俺だということでさらに驚いたようだった。
こんな状況なのに、久しぶりに目に映る咲に見惚れている自分がいた。
髪をきつく縛って、フレームのない眼鏡をかけ、スリットの入った膝丈の黒いスカートに白のジャケットを着た咲は、まさに秘書の装いで、妙に色っぽかった。
「何してるんだよ」
俺は必死に冷静を装って、呼吸を整えた。
「ここを出るぞ」
「まだ!」と咲が珍しく声を荒げた。
「もう少しなの!」
「咲!」
俺はPCに向き直ろうとする咲の腕を強引に掴んだ。
「もう少しで証拠が——」
「これ以上は危険だ! 侑の助けなしで、こんなところを誰かに見つかったら——」
「いい!」と言って、咲は俺の手を振りほどこうとした。
「見つかってもいいの!」
咲が焦っていることは見て取れた。
こんな咲は、らしく、ない。
「どうしたんだよ!」
ハッとした——。
目に飛び込んできた咲のうなじの赤い痕に、俺は無意識に咲の腕を掴む手に力を込めた。
「いた——」
「兄さんのためか——」
『咲をくれよ』と言った充兄さんの声が、頭に響く。
「充兄さんのためか——」
『咲もまんざらじゃなさそうだしな』
「何、言ってるの……」
「充兄さんが良くなったか?」
『お前に似たこの声に感じてたぞ?』
そう言った充兄さんは、笑っていた——。
「今すぐここを出る」
「まだ——」
「だったら、ここで脚を開くか——?」
我を忘れる、ということの意味を、初めて身をもって知った。
咲が驚きと恐怖が入り混じったような表情で、俺を見上げている。
それでも、俺は咲を掴む手の力を緩めなかった。
「見られてもいいんだろ……」
俺は強引に咲のスカートの中に手を滑らせた。
「やっ——!」
「今すぐ、ここを出るぞ」
観光ビルを出て、咲を俺の車の助手席にシートベルトで縛り付けるまで、俺は咲の腕を離さなかった。
俺が車を走らせている間、咲は一言も話さなかったし、俺を見ようともしなかった。
充兄さんと何があった?
今すぐにでも問いただしたい衝動を何とか堪えながら、俺は掌が擦り剝けるほど強く、ハンドルを握りしめていた。
「蒼、今は一緒には——」
咲の言葉を無視して、俺は助手席のシートベルトを外して、無理やりに咲を車から降ろした。
「蒼!」
今、口を開くと、うなじの痕のことや充兄さんとの関係を問い詰め、責め立ててしまいそうで、俺は唇をギュッと閉じていた。
咲を怯えさせていることはわかっているし、そうしたいわけでもない。けれど、咲のうなじに痕をつけたのが充兄さんかもしれないと思うと、自分を抑えられない。
充兄さんが好きだし、尊敬しているし、憧れている。だからこそ、負けたくない。けれど、勝てる気もしない。
『咲が充くんを気に入って、大きくなったら充くんのお嫁さんになるって……』
子供の頃の話だとは、わかっている。けれど、充兄さんは覚えているんじゃないのか? 自分のお嫁さんになりたいと言っていた女の子が、綺麗な大人の女になって目の前に現れたら……。
咲と付き合うまで、嫉妬なんて感情は知らなかった。独占欲なんて、自分にはないと思ってた。
「充兄さんと寝たのか?」
玄関に入るなり、俺は咲を壁に押し付けた。
「何言ってるの? そんなこと——」
「じゃあ、この痕は?」
俺が咲の首に手を回すと、咲はビクッと身体を硬直させた。
「痕って……」と言って、咲はハッとしたように目を見開いた。
「違う! これは——」
思い当たることがあるのか……。
咲が気まずそうに手で痕を隠す。
「何が違うんだよ!」
俺は感情のままに怒鳴ってしまった。
咲がギュッと目を閉じて、うつむいた。
「渡さないからな——」
たとえ、咲と充兄さんに関係があったとしても……。
「愛人だろうがセフレだろうが、どんな関係だって——」
たとえ、会社がどうなっても……。
「絶対、離さないからな!」
咲より大切なものなんて、ない——。
俺は力の限りで、咲を抱き締めた。
「誰とも寝てない……」
咲がポツリと言った。
背中に、咲の手の感触。
「蒼のお見合いの話を聞いて……、蒼に会えって言われたけど私が頷かなかったから、その……」
充兄さんのいたずら……?
「さっきは? なんで侑と連絡を絶ってまで——」
「あれはっ——」と、咲が顔を上げた。
「蒼のお見合いの写真を見せられて……」
「写真?」
「蒼が髪の長い女を抱き寄せてる写真がSNSにアップされてるって、侑に言われて……」
ああ……、あの時の……。
「早く証拠を掴まなきゃって……焦っちゃって——」
「妬いた?」
さっきまでの怒りや嫉妬は、抱き締めた咲の温もりで溶けていた。
咲が俺の腕の中で、小さく頷く。
三週間ぶりの咲の感触。
三週間ぶりの咲の匂い。
三週間ぶりの咲の声。
たった三週間なのに、三か月、いや三年は離れていたように感じた。
「ごめん……。もう乱暴にしないから——」と言いながら、俺は咲の顔を覗き込んだ。
「抱いていい?」
咲が顔を赤らめて、目を逸らした。
たったそれだけの仕草で、俺の薄っぺらい理性の壁が音を立てて崩れた。
「いや、抱くから!」
俺は咲を抱き上げて、寝室へ急いだ。
*****
「またしばらく……会えなくなるか?」
会えずにいた三週間を取り戻すように、夜まで何度もセックスをして、汗を流すために二人で風呂に入っている時に、俺は聞いた。
背後から咲を抱き締めていると、嫌でも充兄さんの残した痕が目に入った。熱さで浮き上がるように鮮明に見える。
「そうね……」
俺は充兄さんの痕に口づけた。
「でも、必要な時は連絡するから……」
「必要な時?」
痕を塗り替えたくて、強く吸う。
「状況や行動が不透明なのは効率が悪いし、ここまで複雑になってくると——」
「本音は?」と言って、俺は彼女の耳を舐めた。
「言えよ……」
「……不安なのはやだ——」
「声が聴きたいのは……必要な時?」
俺は咲の腰を抱いていた手をゆっくりと上に移動させた。彼女の胸の膨らみをなぞる。
「ん……」
「会いたいのは……?」
片手で咲の下腹部を弄る。
「……あっ——」
「充兄さんには触られた……?」
聞かずにいようかとも思ったが、やっぱり気になった。
「ちが——」
「キスは?」
「…………」
沈黙はイエスってことか——。
「されたのか?」
俺は咲に触れる手に力を込めた。
「んんっ——」
「感じた……?」
「そんなことな——」
俺は咲の身体の向きを変えると、咲の中に挿入るように、彼女の身体を乗せた。
「ちょ——」
「俺はあのお嬢様には何も感じなかったな」
俺の動きに合わせて、湯が波打つ。
「蒼、ダメ——」
やばっ——。
いたずら半分にゴムなしで挿入れたのは間違いだった。あまりの気持ちよさに、腰が止まらない。
「あ……」
咲の声が浴室に響いて、いつも以上に興奮させた。
俺のリズムに合わせて咲の身体が揺れて、それが咲自身のリズムになる。
ゴムをしていないことをわかっていて、咲も動きを止めようとしなかった。
この快感に身を任せたいという感情と、子供が出来たら咲と結婚できるという計算が、俺のリズムを加速させた——。