テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#海辺の町
#澪彩文庫本💜🖌
その夜、ルナ・マグの窓際席にオラシオが座っていた。店の明かりがカメラの革にやわらかく反射している。昔は制服の袖をまくって笑っていた少年が、今は知らない町の空気を連れて椅子に収まっていた。
「ちゃんと話すの、何年ぶりだろう」
「数えたくない年数ですね」
ディアビレがコーヒーを置くと、オラシオは懐かしそうに湯気を見た。
「出ていく日に、何も言えなかったの、ずっと気になってた」
まっすぐな言葉だった。だからこそ、胸の奥にしまったままの記憶が少しだけ疼く。港の防波堤、言えなかった別れ、見送りもしなかった自分。たしかに好きだった。けれど、その続きを失った時間はもう長い。
「謝らなくていいよ」とディアビレは言った。「あの頃は、みんな余裕がなかったし」
オラシオは苦く笑う。
「でも、好きだったよ。言いそびれただけで」
カップを置く指先が、ほんのわずかに止まった。昔の自分なら、その一言だけで眠れなかっただろう。けれど今は、驚くほど静かだ。懐かしいとは思う。痛くないわけでもない。なのに、その痛みはもう現在地ではなかった。
「ありがとう」
出た言葉は、それだった。
ちょうどその時、カウンターの奥でジナウタスが新しい豆を挽き始めた。必要以上に大きい音ではないのに、妙に存在感がある。オラシオがそちらを見る。
「厳しそうな人だね」
「そう見えて、面倒見はいいです」
言ってから、自分の声が少しやわらかいことに気づいた。オラシオも気づいたらしく、目を細める。
閉店後、カウンターに残されたマグの横へ、ジナウタスが一杯分だけコーヒーを置いた。
「飲め」
「今日は、ずいぶん無愛想ですね」
「いつも通りだ」
ディアビレが笑うと、彼は少し視線をそらす。
「……惜しい」
「またそれ」
「昔の話で顔を曇らせるの、惜しい」
その言い方が不器用で、なのに妙にうれしかった。