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アパートの廊下に、かすかなノックが響いた。
昴は振り返り、ドアの前に立つ。友人が軽い笑顔で立っている。
「昴、ちょっと話さない?」
だが、部屋の中には翔が座っていた。
無言の気配が、空気を張り詰めさせる。
友人は一瞬ためらい、視線を逸らす。
「……今日は無理か」
ノックだけ残し、足音が去っていった。
昴は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
――翔の前では、誰も入れない。
音楽の中でしか存在できない二人の世界。
それを守りたくて、自然と外の世界を遮断してしまう。
その夜、昴はアパートの窓から街の灯りを眺めた。
人々が行き交い、窓の向こうに広がる世界が存在する。
だが、手を伸ばしても届かない距離感。
――俺の世界は、もうここにしかない。翔と音楽だけ。
練習室でも、二人は沈黙のまま向かい合う。
指先が鍵盤に触れるたび、互いの呼吸を確かめる。
外の音や視線は一切遮断され、空間にはただ旋律だけが漂う。
誰かの声が聞こえることも、誰かが訪れることもない。
翔は譜面に視線を落とし、淡く震える手で鍵盤を押す。
昴は隣で音符を追い、視線を合わせることもなく、ただ音を繋ぐ。
互いの存在だけが、世界を成り立たせる支柱になっていた。
しかし、閉ざされた窓の向こうに、街のざわめきや光景があることは昴も忘れてはいなかった。
それでも、外出を減らし、友人の誘いも断り、二人だけの世界に浸る。
――音楽室とアパートだけ。
それ以外の場所は、必要なければ存在しない。
夜が深まると、二人の世界はさらに濃密になる。
ピアノの響きが壁を伝い、部屋の空気に浸透する。
言葉は少なく、指先と旋律だけが交わされる。
それが二人の唯一のコミュニケーションであり、依存の証だった。
昴は譜面を閉じると、そっと息をついた。
窓の向こうには外界がある。だが、その光景に触れることは、今は怖い。
翔の存在が、全てを支配している世界。
そこに漂う安心感と危うさが、昴の胸を満たす。
閉ざされた窓の向こうで、世界は動き続ける。
だが、二人だけの部屋では、音楽と呼吸だけが確かに響き、二人の心を繋いでいた。