練習室の空気は、いつもより重く湿っていた。
翔の手首には薄い包帯が巻かれ、指先がわずかに震えている。
医師からは「しばらく休養を」と言われたが、翔の目はそれを拒絶していた。
「……弾けないなら、意味がない」
声は低く、憤りと焦燥が混ざる。
ピアノの前に座ったまま、彼は指先をわずかに動かす。
その手の震えを見た昴は、胸が締め付けられた。
――無理をしている……
指先が痛むのに、音を生み出そうとする翔の姿に、昴は目を潤ませる。
「翔、休もう……手首、無理してる」
昴は手を伸ばす。だが、翔は軽く首を振った。
「休む? 俺が弾けないなんてありえない。昴……お前の音がないと、意味がないんだ」
その言葉は、甘く、しかし鋭く胸を刺す。
昴は恐怖と歓喜を同時に感じる。
――死ぬほど依存されている。
でも、この命を削るような依存を、止められない自分もいる。
翔は鍵盤に指を置き、痛みを押し殺して音を紡ぐ。
その一音一音が、昴の胸に突き刺さる。
指先の震え、肩の緊張、微かに噛み締める唇――全てが音になり、昴の心を揺さぶった。
昴は手を添え、そっと翔の指を支える。
「大丈夫、俺がいる……無理はしないで」
だが翔は首を振り、強引に指先を動かす。
痛みに歪む顔が、昴の胸を締め付ける。
練習室の中に、荒れ狂う嵐のような旋律が生まれる。
痛みと怒り、依存と愛情が混ざった音。
息が詰まりそうになるほど、二人だけの濃密な空間。
昴は恐怖と祈りを胸に、翔の手首を軽く支えながら、旋律を共に奏でる。
――止めたくない、でも壊れたらどうしよう。
指先の震えに怯えつつ、昴は心から願った。
翔が弾く音が、二人を繋ぐ限り、何も壊れないでほしいと。
夜が深まるにつれ、旋律は荒れ、音は時折途切れる。
それでも、二人の呼吸と指先が重なる瞬間、世界は確かに存在していた。
――依存も、痛みも、全てが二人だけの旋律。
やがて翔は小さく息をつき、肩を落とす。
昴はすかさず手を添え、膝を抱えるように支える。
「……もう、少しだけ休もう」
その言葉に、翔はわずかに頷く。
荒れた夜の練習室に、静かな余韻が漂う。
手の震えと共に、二人だけの世界の危うさと甘さが、確かに残っていた。
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