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#海辺の町
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数か月後、補修の進んだ離れには夏の光が差し込んでいた。
傷んでいた床は直り、危なかった柱には控えが入り、窓も潮風に負けないよう手当てされている。それでも、木の匂いも、海の気配も、誰かが湯のみを置いていきそうな空気も、ちゃんと残っていた。
札の一部は壁に展示され、海花の絵も額に入って並んでいる。子どもたちの読み聞かせの日には今でも声が響き、昼どきには近所の人がふらりと座って帰る。
「いい顔になったな」
遼征が柱を見て言う。
「建物の話?」
啓介が聞く。
「お前の顔の話」
入り口では義海が新しい案内板を抱えて騒ぎ、享佑は差し入れの数を相変わらず細かく数えていた。莉々夏が「あ、来た」と声を上げる。
啓介が振り向く。
坂の上から芽生が歩いてきた。
春より少し日に焼けて、鞄は前より大きい。けれど石段を上がる歩幅は変わらない。啓介は一瞬だけ、春の最初の日へ戻ったような心地になった。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
ひと通り皆が騒いだあと、芽生は啓介を縁側へ引っぱっていく。
「これ、返しに来ました」
そう言って取り出したのは、あの赤いリボンだった。
「澄江さんが、結び直すなら今でしょって」
芽生は笑い、啓介の左手首へそっとリボンを結ぶ。
昔の結び方。離れにいた世話係から澄江へ渡り、澄江から今へ戻ってきた印。
啓介は手元を見下ろし、それから芽生を見た。
今なら、逃げずに言える気がした。言い換えずに、ちゃんと。
「今度はちゃんと言います」
啓介は息を吸う。
「好きです」
芽生の目が丸くなる。
けれど次の瞬間、やわらかく笑って頷いた。
「うん。知ってました」
「早く言ってください」
「私の番、残してたので」
縁側の向こうで、夏の海が光っていた。
誰かのために開いていた場所は、季節を越えてまた誰かを迎えている。
赤いリボンが、啓介の手首で小さく揺れる。
春に結び損ねた気持ちは、ようやくここで結び直された。