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夜の匂いがまだ残る川沿いの道を、遥は歩いていた。足取りは重いはずなのに、不思議と心だけが少しだけ軽い。
どこへ向かうつもりもなかった。けれど今夜に限っては、街の奥ではなく、なぜか自分の家の方向へ足が伸びている。
――いつもなら、まだ夜はこれからだったのに。
自嘲のような思いが胸をかすめる。
危ない連中に声をかけられ、誰かと体をつなぐことで「守られない」自分を証明しようとしてきた夜。
それを繰り返してきたはずなのに、今日はもう、誘い文句が喉から出てこない。
立ち止まり、川面を覗き込む。
水面に映った顔は、他人のように見えた。
耳に残る日下部の怒りの熱が、まだ消えない。
あの冷たい声が、静かに胸を突き刺している。
(――あいつ、結局俺を置いていかないのか)
その事実が、遥を少しだけ怯えさせる。
もしもあの怒りが本物なら、とっくに背を向けていたはずだ。
それでも日下部はそこにいた。
「……何してんだよ、俺」
小さくつぶやく。
夜風がその声をさらい、遠くへ運んでいった。
数日後。
駅前の自販機で缶コーヒーを取り出したとき、背後から軽い笑い声がした。
「相変わらず夜が似合うな」
振り向くと、蓮司が立っていた。
白いシャツのボタンをいい加減に外し、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。
「……なんで」
問いの先を探す遥を、蓮司が眺める。
「お前が落ちてく音、最近小さくなったからさ。つまんないなって」
心臓が一拍ずれる。
その笑みは、遥の空洞を見透かしている。
「俺が誰と何してようが、お前には関係ないだろ」
吐き捨てると、蓮司は肩をすくめた。
「そう言うと思った。けどさ――あいつ、しぶといな」
日下部の顔が頭に浮かび、遥は息を詰める。
蓮司は目を細めて、缶コーヒーを指先で転がした。
「お前、あいつに少しずつ拾われてる。だから面白いんだよ」
遥は答えない。
声を出せば、何かが崩れそうだった。
蓮司は最後に、からかうような微笑を残して去っていった。
その背中を見送りながら、遥は初めて自分の中に芽生えた小さな変化に気づく。
まだ壊れたい衝動は消えていない。
けれど、あの夜から続いていた暗い流れが、ほんのわずかに方向を変えはじめていた。