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昼下がり。雨上がりのにおいが、まだ廊下に残っている。
放課後の掃除当番、モップのきしむ音だけがひびいていた。
朔は黒板消しを叩きながら、ちらりと窓の外を見る。
ぬれた校庭が光を散らし、白い雲がゆっくりと流れていた。
その様子に意識を奪われていると、不意に声が飛んできた。
「……朔」
――え?
胸の奥に、何か鋭いものが触れた気がした。
振り返ると、晴弥が雑巾を絞りながらこちらを見ていた。
いつもの無表情。けれど――言葉が確かに違った。
今、呼んだ。
苗字じゃなくて、名前で。
「……え、今……俺の、名前……?」
情けないほど、声が裏返る。
「聞こえてただろ」
晴弥は淡々と言い、バケツの水を替えに行こうとする。
その背中が妙に遠く、朔は慌てて追いかけた。
「なんで急に……?」
「理由いる?」
ぶっきらぼう。でも耳の先、わずかに赤い。
――なんなんだよ、その反応。
晴弥が持つバケツを支えようと手を伸ばした瞬間、
二人の指先が水滴越しに触れた。
「っ」
朔は小さく息を呑む。
手が震え、雑巾が床にぽとりと落ちた。
窓に目を移すと、雨で曇り気味のガラスに二人の影が並んで映っている。
その像が、なんだか近い。
閉じた距離が、息苦しいほどだった。
「……天野のこと、苗字で呼ぶやつ多いし」
晴弥がぽつりと零す。
「別に俺が無理に合わせる必要ない」
他の誰でもない。
彼自身の選択で、朔を「朔」と呼んだ。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
「……じゃあ、俺も」
気づけば朔は言っていた。
「晴弥って、呼んでいい?」
晴弥は少し驚いたように目を瞬かせた。
短い沈黙。
掃除道具入れの扉が、廊下の風にカタリと揺れる。
「……好きにすれば」
小さすぎる声。
でもちゃんと聞こえた。
朔の喉仏が上下し、鼓動がうるさくなる。
さっき触れた晴弥の指先の感触が、まだ残っていた。
黒い傘の柄を握るときと同じ手。
余計な力を込めず、何かをそっと守るような手。
――あの優しさ、嘘じゃなかったんだ。
窓に映る影が揺れ、朔の横顔がほのかに紅潮する。
「晴弥」
思い切って呼んでみる。
舌に乗せた名前が、ひどく甘かった。
晴弥はうつむき、雑巾を強く握った。
その指がかすかに震えたのが、朔には見えた。
「……呼ぶなって、言ってないだろ」
小声の抗議が、逆に照れをごまかしているようで。
雨上がりの光が差し込み、床に落ちた水滴がきらりと光る。
二人の影が重なり、少しだけ近づいた。
ふと、晴弥がバケツを持ち上げる動作で体勢を崩した。
朔は反射的に腕を支える。
距離が、一瞬で縮まる。
息が当たりそうなほど近い顔。
「……朔」
さっきよりも柔らかく、でも確かに。
名前を呼ばれただけなのに、胸が焼ける。
――この声を、もっと聞きたい。
そんな自分の欲が、朔の心にゆっくりと形を成していく。
「手、震えてる」
晴弥が囁く。
朔は反射的に手を見た。震えている。
「……ちが、これ、その……」
言葉にならない言葉を選んでいる間に、晴弥は視線を逸らし、
ぽつりと言った。
「……俺も。少し」
その白状が、息を飲むほど不器用で。
なのに、どこまでも誠実だった。
晴弥はバケツを持ったまま歩き出す。
朔はその背を無意識に追う。
名前の距離が変わるだけで、
世界はこんなにも鮮やかに揺れてしまうのか。
「晴弥」
廊下の端で、もう一度呼んでみた。
晴弥の肩がわずかに震え、足が止まる。
「……何回呼ぶんだよ」
呆れたように言いながらも、声が少し柔らかかった。
窓に映る影が静かに寄り添い、
水滴の跡が消えていく。
雨上がりの光が二人を照らす頃、
朔はひっそりと気付いた。
――もう、後戻りなんてできない。
名前を呼ぶたび、近づいてしまうから。