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第1話 「巡回の朝」
警察官になりたいと思った理由を
私はあまり人に話さない。
子どもの頃,泣きそうになって
立ち尽くしていた私の前に警察官が一人 立った。
名前も顔も覚えていない。
それでも,その人がそこにいただけで
不思議と怖くなくなった。
それが,すべての始まりだった。
五歳で柔道を始めた。
投げられて,受け身を取って,また立つ。
泣く前に体が動くようになるまで
そう時間はかからなかった。
泣く暇があったら,次を考えろ。
それが当たり前になった。
桐島 恵(27)
警察官だ。
机に戻ると,視界いっぱいに書類の山が広がっていた。
一瞬,思考が止まる。
……これは,何かの嫌がらせかしら。
ため息を飲み込んでファイルを閉じ
巡回の準備をする。
外に出ると,署の前に見慣れた背中があった。
中野 隼人(24)
同じ班の警察官。
近づくと彼は振り返って軽く手を上げる。
「おはよ,恵」
……やっぱり。
「だから名前で呼ばないでって
言ってるでしょ」
「今さら変えんでもええやん」
悪びれた様子はない。
この人は,いつもこうだ。
年下のくせに距離が近い。
それを無遠慮だとも思っていない。
パトカーに乗り込む。
助手席との距離が,やけに近い。
毎回同じ。慣れる気はないのに
慣れてしまっているのが少し悔しい。
「今日、機嫌悪い?」
「普通よ」
「それ、普通ちゃう時の声やけど」
……よく見ている。
それも,腹立たしい理由の1つだ。
中野は軽そうに見える。
黙っていれば目立つ顔をしているし
声をかけられることも多い。
本人はいつも言う。
「え? 全然分からん」
信じがたいけれど,本気らしい。
ただし。
仕事になると話は別だ。
判断は早く,動きに迷いがない。
現場では,背中を預けられる。
だから私は,この距離を許している。
そういうことにしている。
パトカーが走り出す。
街は静かで,どこか張りつめている。
無線が鳴った。
「こちら本部。二号車、巡回開始を確認」
私は即座にマイクを取る。
「了解。こちら二号車、巡回に入ります」
中野の表情から,さっきまでの軽さが消える。
視線は前。呼吸も整っている。
この切り替えの速さだけは信用している。
今日も何事もなく終わればいい。
そう思いながら,私はハンドルを握る。
けれど…。
この街が,そう簡単に静かなままでいる
はずがないことを, 私は既に知っている。