テラーノベル
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大空洞に残ったのは、勝ち誇る声ではなかった。
ミラは倒れたまま動かない。髪が床に散り、頬に土がついている。
エドガーは魔導書を抱えたまま俯いている。ページの角を握る指が白い。
ダリウスは仰向けになり、岩の床に背を預けて大きく息を吸い込んだ。胸が上下し、吐くたびに喉が鳴る。
オットーは潰れたオーガの前で膝をつき、肩を上下させていた。息が途切れがちで、唾を飲み込む音がする。
しばらく誰も口を開かなかった。
荒い呼吸だけが広間に返ってくる。水滴の音が遠くに混ざり、足音の反響が消えるまで時間がかかった。
やがて、ダリウスが口を開いた。
「……今日はここで野営にしよう」
誰も反対しない。
返事を出す元気がないまま、手だけが動き出した。
オットーは盾を脇へ転がし、エドガーは魔導書を抱え直して立ち上がる。ダリウスは肘で体を起こし、膝に手をついて息を整えた。
ダリウスはミラをそっと抱き上げ、テントの中の寝袋へ寝かせた。
ミラの頭が腕の中で揺れる。ダリウスは揺れを止めるように抱え直し、足元を確かめながらゆっくり歩く。
ランプの灯りに照らされたミラの顔は少し青い。まつ毛が濡れている。呼吸は浅いが途切れない。
「ミラは?」
エドガーが声を落として問う。
ダリウスはミラの顔を覗き込み、額の髪をそっと払った。
「気絶しているだけだよ。大丈夫だ」
テントの入口からオットーが顔を出した。頬に煤がつき、顎が汗で光っている。
「……生き残ったな」
ダリウスはオーガだった肉塊を一瞬だけ見た。視線を戻し、短く答える。
「あぁ」
*
焚き火の周りには重い沈黙が続いた。
ダリウスは何も言わず、鍋とナイフを手に取る。
水を張った鍋に、ざくざくと野菜が落ちていく。
皮を剥いたじゃがいもがごろりと沈み、
刻んだ玉ねぎと人参が、ささやかな色を添えた。
ぐつぐつと煮立つ音が、やがて静寂を上書きしていく。
ベーコンから溶け出した脂が、湯面に薄い膜をつくった。
肉の旨味と野菜の甘みが溶け合い、
ほのかな塩気とともに、優しい匂いが広間に広がっていく。
鍋の中でじゃがいもが柔らかくなり、スプーンを入れるとほろりと崩れそうだった。
湯気が上がり、腹が鳴る。ミラのいない席まで匂いが届いた。
その瞬間。
「いい匂い!!!」
テントの中から元気な声が響いた。
入口の布がめくれ、ミラが勢いよく顔を出した。髪が跳ね、目がまっすぐ鍋を見ている。
「ポトフ!? ポトフでしょ!? ねぇダリウス、ポトフだよね!?」
「ミラ、起きたのか!!」
ダリウスの頬が緩み、肩が落ちる。鍋をかき回す手が一瞬止まって、すぐ動いた。
オットーの呼吸が少しだけ整い、エドガーが顔を上げる。
「お腹すいた~! ねぇねぇ、一番具がごろごろしてるところちょうだい!」
ミラは寝袋から飛び出し、焚き火のそばへ駆け寄ってくる。足がもつれても止まらない。
オットーは「やれやれ」と言わんばかりに肩を揺らし、口元を緩めた。
ダリウスは苦笑しつつ、具材をたっぷりよそってやった。ミラの皿にじゃがいもが二つ落ちる。
湯気が立つ。スープを飲む音が増える。
食卓の空気が戻りかける。だが、ひとりだけ手を止めた者がいた。
「……」
エドガーはスプーンを皿の上に置き、視線を落としたまま動かない。
火の明かりが頬の筋を照らし、口が固い。
ダリウスは鍋に手を伸ばしたまま、その気配に気づく。
オットーの皿へ具をすくいながら、何気ない声色で問いかけた。
「どうしたんだ、 エドガー?」
エドガーの肩がびくりと震えた。
息を吸う。吐けない。喉の奥で詰まったまま、やっと声が出る。
「……私は、 あなた達を殺しかけました」
オットーはおかわりの皿を受け取ったところだった。
「うまそうだな」と言いかけた口を止め、不思議そうに眉をひそめる。
「どういうことだ? お前はお前の仕事を果たしたぞ」
エドガーは顔を上げない。
拳が膝の上で固くなり、指が食い込む。
「あの時……シールドが切れかけるのを見て、 私は詠唱を一行、 省略しました」
焚き火の光が横顔を照らす。唇がかすかに震える。
「リズムも乱れ、 声も上ずり、 発音も乱れました。
結果……魔法が乱れ、 オーガを一撃で屠れなかった……」
エドガーは拳を締め付けたまま、息を吐いた。吐いた息が短い。
ミラは一番近くでその詠唱を見ていた。
虫眼鏡を持つ手が震えていたことも、喉を絞るように言葉を繋いでいたことも。
「エドガー……」
ミラの声は小さい。責めない。慰めもしない。
ただ呼んだだけだ。
空気が重くなりかけた、その瞬間。
「はっはっはっは!」
オットーが突然、腹を抱えて笑い出した。
ミラもダリウスもぽかんと彼を見る。
エドガーは目線を上げないまま、眉だけが動いた。
「気にすんな、 エドガー」
オットーは笑いながらスプーンをひょいと振った。
「その判断で正しかったんだよ」
ダリウスも口元を緩める。
「あぁ、 そうだな」
オットーは腕を組み、少しだけ真面目な顔になる。笑いが止まり、息が整う。
「ギリギリだったんだよ。俺のシールドバッシュはな——
もう、 あと五秒も持たなかった」
エドガーが、はっと顔を上げる。目が大きくなる。
「……そう、 だったんですね……」
「おう。だからお前が早く撃とうとして、 詠唱を削ったのは正解だ。
あれで、 もしきっちり完璧な魔法を目指してたら、 その前にシールドが割れてた」
オットーは肩をすくめて見せた。
「完璧なんて求めてる余裕はねぇよ。あの場にあったのは“間に合わせろ”だけだ」
エドガーは目を瞬かせた。息を吸い直し、肩が少し落ちる。
「……そう、 ですか……」
声の棘が少しだけ薄くなる。
「少しだけ……ホッとしました」
エドガーがポトフをひと口すする。湯気を吸って咳き込みそうになり、喉を鳴らして飲み込む。
指で口元を拭う動きがゆっくりになった。
鍋の中身は半分ほどになっている。
ダリウスが静かにおかわりをよそい、ミラがじゃがいもを頬張る。音が増えて、火の音が小さく聞こえる。
オットーが自分の右足を見つめた。
足首を一度動かし、指を開いて閉じる。重心を乗せ、また戻す。
「そっ、 それよりさ……」
声が震えていた。大声ではない。小さな声だ。
「ミラ。俺の右足を……治療、 いや、 再生したのは……加護っていうか、 もはや奇跡のレベルだったが……」
ミラはポトフの縁に口をつけたまま、軽い調子で答えた。
「あー、 あれね。
前に大司教様がやってるの、 一度見たから」
金属が皿に当たる音がした。
エドガーの手が止まる。
「……は?」
ゆっくりとミラの方を見る。首が固い。
「!? “見て”できるものではありませんよ!!」
声が裏返るほどの絶叫だった。
ダリウスは腕を組み、妙に誇らしげな顔でニヤニヤとミラを見ている。
「ミラは主席だからなぁ」
「そうそう!」
ミラは胸を張り、自信満々に宣言した。
「容姿端麗、 成績優秀——神は二物を与えたのね!」
エドガーの表情が固まる。口が開いて閉じない。
「いや! 奇跡を“一度見ただけ”でおかしいでしょう!!」
スプーンを握った手が震える。
「数十年の修行が……! 祈りが……! 積み重ねが……!!」
両手を宙に突き上げ、叫ぶ。肩が震え、声がひっくり返る。
オットーも眉を寄せて口を挟む。
「そうだぜ。勘定が合わない。
“見ただけ”でって、 何だよそれ……」
ダリウスは平然としていた。スープをひと口飲み、言う。
「特技なんだよ。ミラの——一度見れば、 大体できる」
ミラが「えっへん」と胸を張る。
エドガーとオットーは同時に言葉を失い、スプーンを動かす手だけが遅れる。
焚き火の音と、鍋の小さな泡の音だけが残る。
しばらくして、ダリウスが鍋の火加減を確かめるふりをした。木の棒が鍋を叩き、音がする。
「……でもまぁ、 たかがオーガにこのザマってのは——さすがに歳を感じるな」
口調は軽い。だが言い終えたあと、視線が落ちる。
握ったマグの指が強くなる。
エドガーはその気配を拾い、わざと肩をすくめた。
「そうですね」
口元を吊り上げて続ける。
「昔だったら、 “あ、 素材が目の前に転がり出てきましたね”くらいにしか思ってませんでしたからね。
討伐対象というより、 “ドロップ品を運んでくれる便利な巨体”でしたよ」
ミラが「素材……」と小声で繰り返し、オーガだった塊からそっと目を逸らす。
オットーはポトフを食べ終え、爪楊枝で歯の間を掃除しながら呟いた。
「……歳なりの戦い方が必要だな」
エドガーは肩を落としつつ頷いた。
「そうですね……。
若い頃の“力押しの正解”が、 そのまま通用するほど、 世界も身体も甘くない、 ということでしょう」
焚き火がぱちりと弾ける。
ダリウスはマグを両手で包み、湯気越しに二人を見た。
「……だったら、 これからの正解を探せばいいさ。
三十過ぎても、 四十過ぎても、 生きてるうちは更新できる」
ミラはその言葉を聞いて、スプーンを止めた。
目線が三人の顔を順番に辿り、最後にマグの湯気へ落ちる。口元が少しだけ上がる。
焚き火が小さく鳴り、火の粉が一つ上がった。
*
その夜。
洞窟の天井は黒いままだ。時間の手掛かりは焚き火の火だけ。薪がぱち、ぱち、と静かに弾ける。
皆が寝静まったあと、ミラはそっと寝袋から抜け出した。
布が擦れる音を止めるために動きを遅くする。
焚き火のそばに腰を下ろし、右手を炎へかざした。
橙色の光が皮膚を照らす。
白く硬い部分がある。指先にかけてまだら模様が広がっている。境目がはっきりしていた。昼間より範囲が増えているのが分かる。
ミラは手を見つめた。
握ろうとした指が途中で止まり、ぎこちなく戻る。
「……これが、 奇跡の代償ね……」
声が揺れる。ミラは咳払いをせずに飲み込んだ。
口角だけを上げて笑おうとするが、頬がうまく上がらない。
「……大丈夫、 大丈夫。右手がちょっと石っぽいくらい……なんとかなるもん」
言い終えたあと、ミラは一度だけ深く息を吸った。
それから後ろを振り返る。
寝袋が三つ並んでいる。
ひとつ目。ダリウス。
仰向けで眠っている。眉間の皺が少し緩み、口が半開きだ。胸がゆっくり上下している。
ミラは小さく笑う。
「……ダリウス、 ちゃんと寝てる」
ふたつ目。オットー。
豪快ないびきが反響している。寝袋からはみ出したお腹が呼吸に合わせて上下していた。
「もー……うるさいなぁ、 おじさん……」
文句を言いながら、声は小さい。言い終えてから、口元がまた緩む。
みっつ目。エドガー。
横向きに丸くなり、魔導書を抱きしめている。寝ているはずなのに、指先がページの端を掴んだままだ。
「寝てるときまで本、 離さないんだ……」
ミラが喉の奥で笑う。
焚き火の音と、オットーのいびきと、三人の寝息。
ミラは右手を胸元に戻し、焚き火を見つめた。
石の部分が布に当たり、硬い感触が返る。
(……私の決断は、 間違いじゃない)
ミラは唇を噛み、息を吐く。
足が飛んだ瞬間。走り出した瞬間。詠唱した瞬間。胸の奥が熱くなり、喉が詰まる。
(ダリウスがいて、 オットーがいて、 エドガーがいて……みんな笑って、 ご飯食べてる)
ミラは石になりかけた指先で寝袋の方角へ手を伸ばし、途中で止めた。
指を握る。硬いところが先に当たり、柔らかいところが遅れてついてくる。
(それを守れたなら……私は、 ちゃんと冒険者だ)
ミラは小さく息を吐き、目を細めた。
炎の光が揺れ、指先の白さがまた浮く。
薪がぱちりと弾けた。
ミラは寝袋へ戻る前に、もう一度だけ右手を見た。
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