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第2話:十行
笹波駅のベンチに腰かけた男は、灰の混じったコートの裾を指でつまんでいた。三十代半ば。寝ぐせが残る短髪は焦げ茶、頬にうっすらと無精ひげの影。安いスニーカーは雨じみでくたびれている。ペンだこだけが、彼が“書く人間”であることを静かに示していた。
足元に、小さな金属の光。USBメモリだ。側面に貼られた細いラベルには、震える手書きで「モリタ・ジュン 2031」とある。自分の名前、来年でも再来年でもない、もっと先の数字。喉が鳴った。
近くのネットカフェで開くと、フォルダはひとつだけ。「十行.txt」。画面に並ぶ冒頭の十行は、彼の癖を知り尽くした誰か――つまり“未来の自分”が書いたとしか思えない滑らかさで、笹波駅の情景から始まっていた。水色から橙へ溶ける空、電車の窓に流れる顔、ベンチの軋み。すべてが的確で、痛いほど上手い。十行目でぴたりと終わっているのが、逆に意地悪だ。
「使えば、変われるのか」
鏡の自分に問うように呟いて、彼はメモ帳を開いた。同じ言葉をなぞれば、今日すぐ賞に出せる。けれど、その十行は“ここまで来た自分”の証で、“ここから行く自分”の土台ではない。
彼は打つ。電車のブレーキ音、ホームに漂う鉄の匂い、立ち上がれない朝の重さ。言いよどみや文の継ぎ目まで、今の自分の速度で置いていく。十行、十一行、十二行。指が止まるたび、胸の鼓動だけがはっきりした。
気づけば、USBはポケットから消えていた。ベンチに戻ると、同じ場所に何もない。ただ風がコートの背を押す。
「拾ったのは、十行じゃなくて、続ける力だったのかもな」
モリタ・ジュンはコートの襟を立て、駅舎の明かりを背に歩き出す。笹波駅は、今日も誰かの未来をほんの少しだけ前に押した。