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叩かれる音は、日常の一部だった。
キッチンの奥で、皿が割れる音がしたときも、遥は息を止めただけで、泣きもしなかった。泣いたら、もっと長く続くことを知っていたから。
母の怒鳴り声、兄たちの笑い声、冷たい床。
それらは“生活の音”だった。
朝に目を覚ませば、同じ景色が繰り返される。怒りの残滓が壁に染みついた家で、彼は「そういうもの」として生きていた。
幼い頃の遥には、“普通”という言葉が存在しなかった。
他人の家を見たことがない。
学校でクラスメイトが「昨日、家族でアイス食べた」と話しても、ピンと来なかった。
家族と食卓を囲むという光景は、遥にとって絵本の中の出来事にすぎなかった。
違和感は、静かに芽を出していた。
小学二年のある日、給食の時間。隣の席の女の子が「これ、おいしいね」と笑った。
その笑顔が、なぜか怖かった。
箸を持つ指が震えた。
何が怖いのか、自分でも分からない。ただ、その“やさしさ”の温度が、肌に触れると痛かった。
帰り道、怜央菜たちにその話をしたとき、「お前、気持ち悪いんだよ」と蹴られた。
そのとき、胸の奥で、何かが音もなく折れた。
──それでも、違和感は確信にはならなかった。
遥にとって世界とは、痛みと嘲笑が当たり前の空気だったから。
だから、他に何かがあることすら想像できなかった。
高学年になる頃、言葉の刃は鋭さを増した。
兄たちは「人形」「家畜」「失敗作」と呼んだ。
クラスでも、その言葉はあっという間に広がった。
教師は見て見ぬふりをした。
ある日、掃除の時間に、上履きがゴミ箱に捨てられていた。笑い声が背後から聞こえる。
「お前さ、何されても無反応だよな。人間なら怒るだろ」
その言葉に、遥は初めて、胸の奥がざらついた。
“人間なら”。
──自分は、人間ではないのか。
その夜、家で鏡を見た。
頬に青あざ、唇の端に乾いた血。
鏡の中の自分が、知らない他人のように見えた。
「これが、普通じゃないのかもしれない」
そう思った瞬間、恐怖よりも先に虚しさが来た。
壊れているのは自分か、それとも世界か。
答えが出ないまま、静かな闇が部屋を満たした。
中学に入る頃には、噂が形を持って歩いていた。
SNSには遥の名前をもじったアカウントがいくつも作られ、「生きてるのが奇跡」と書かれていた。
通学路で見知らぬ上級生が笑いながら言った。
「お前、まだ壊れてないの?すげぇな」
その声が、遠くで割れるように響いた。
笑い声と、夕焼けの赤。
世界のすべてが、どこか歪んで見えた。
──そのとき、やっと気づいた。
ここは壊れている。
自分が壊れているのではなく、世界のほうが、最初から歪んでいたのだと。
けれど、その気づきは救いではなかった。
壊れた世界の中では、正常に気づいた者から先に崩れていく。
次の朝、兄に叩き起こされながら、遥は思った。
「自分のいる場所を変える方法がない」という事実こそが、一番の暴力なのだと。
それでも彼は、息をする。
声を出さずに、生きているふりをする。
それが、彼の世界で唯一の「抵抗」だった。