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羽海汐遠
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第7話 選ばれた理由
朝倉悠斗は、土を運んでいた。
両腕に抱えた籠は重く、肩へ食い込む紐が皮膚をこすっている。
前にも後ろにも人がいた。
誰も顔を上げない。
足元には固く踏みしめられた道が続き、その両側を高い壁が囲んでいた。
止まるな。
遅れるな。
声が飛ぶ。
どこから聞こえるのか分からない。
悠斗は足を前へ出した。
息が苦しい。
喉が渇いている。
けれど水を求めることは許されない。
籠を落とせば、何かが起きる。
それだけは知っていた。
なぜ知っているのかは分からない。
前を歩く誰かが膝をついた。
列が少し乱れる。
乾いた音が鳴った。
倒れた人はすぐに立ち上がった。
声も出さず、再び籠を担ぐ。
悠斗も歩いた。
歩くしかなかった。
道の先に、四つの印が重なった建物が見えた。
春。
夏。
秋。
冬。
四季星で何度も見た印だった。
建物の入口で、腕へ細い輪をつけられる。
冷たい感触。
次の瞬間、視界の端に数字が浮かんだ。
作業価値。
身体価値。
継続可能時間。
悠斗は腕を振りほどこうとした。
背後から誰かが肩を押さえる。
振り向く。
顔は見えない。
ただ、穏やかな声だけが聞こえた。
安心してください。
あなたは選ばれています。
悠斗は寝具の上で身体を起こした。
息が荒い。
胸の内側で心臓が強く鳴っている。
部屋はまだ暗かった。
窓の外には雪が降っている。
旅館の床。
低い机。
眠る四人。
夢だった。
そう思った瞬間、右肩へ痛みが走った。
手を当てる。
籠の紐が食い込んでいた場所と同じだった。
皮膚には何も残っていない。
それでも痛みだけが消えない。
悠斗は音を立てないように寝具から出た。
窓辺へ座り、雪の町を見下ろす。
温泉水路から湯気が昇っていた。
昨日は美しく見えた景色が、今は薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるようだった。
背後で布が動く音がした。
蓮が身体を起こす。
「眠れないのか」
悠斗は振り返った。
蓮の髪は寝癖で少し乱れていた。
「起こした?」
「いや」
蓮は机の上の飲み物へ手を伸ばした。
一口飲み、悠斗の向かいへ座る。
「顔が変だ」
「どんな顔」
「逃げてきた顔」
悠斗は肩へ触れた。
言うか迷った。
けれど夢の中の声が耳に残っていた。
選ばれています。
「夢を見た」
蓮は黙って続きを待った。
「知らない場所で、土を運んでた。大勢で列になって、休めなくて」
「四季星か」
「分からない。でも四つの地域を重ねた印があった」
蓮の指が飲み物の容器で止まる。
「その夢、初めてか」
「たぶん」
「たぶん?」
悠斗は窓の外へ目を向けた。
「初めて見たはずなのに、何をしたら怒られるか知ってた。水を飲んじゃいけないことも、籠を落としちゃいけないことも」
「夢だからじゃないか」
「そう思いたい」
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、自分の右手首を握る。
「俺も見た」
悠斗が振り向く。
「いつ」
「秋域の夜」
蓮は低い声で続けた。
「地下にいた。狭い通路で石を削ってた。周りに大勢いた。手が止まると、天井の装置が鳴る」
「どうして今まで言わなかった」
「ただの夢だと思った」
「今は?」
「同じ印があった」
二人の間に、温泉水の流れる音だけが残る。
蓮は袖を上げた。
手首に何もないことを確かめるように、指で皮膚をなぞった。
「夢の中では、ここに輪がついてた」
悠斗の呼吸が浅くなる。
自分も同じだった。
腕へつけられた輪。
数字。
価値。
「何て表示されてた?」
「作業番号。食事回数。残り時間」
「残り時間って」
「分からない」
窓の外で雪が強くなった。
灯りの少ない町を、細かな粒が埋めていく。
美咲が寝具の中で身じろぎした。
「二人とも、何してるの」
眠そうな声だった。
悠斗と蓮は顔を見合わせる。
美咲は身体を起こし、肩へ毛布をかけた。
「もう朝?」
「まだ早い」
「じゃあ、怖い話?」
蓮が飲み物の容器を机へ置く。
「近い」
美咲の眠気が消えた。
悠斗は夢の内容を話した。
蓮も秋域で見た夢を話した。
美咲は口を挟まずに聞いていた。
二人が話し終えると、毛布の端を強く握った。
「私もある」
悠斗が美咲を見る。
「夢?」
「夢じゃないと思ってた」
美咲は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。
「秋域の香りを再現する店で、昔の家の匂いをお願いしたでしょ」
悠斗はうなずいた。
美咲が選んだのは、幼い頃に暮らしていた祖父母の家だった。
畳に似た床の匂い。
煮物。
雨の日の木材。
香りが広がった途端、美咲は泣いていた。
「途中で、知らない匂いが混ざったの」
「どんな」
「土と汗と、古い布。あと、何かを燃やした匂い」
美咲は鼻の前へ手を置いた。
思い出すだけで息苦しくなったように、眉を寄せる。
「匂いを嗅いだ瞬間、足が動かなくなった。頭の中に、狭い部屋が見えたの。床に大勢座ってて、外へ出る順番を待ってた」
「何の順番?」
「分からない」
美咲は首を振った。
「でも、呼ばれたくないと思った。呼ばれたら戻れないって知ってた」
蓮の手が机の上で固くなる。
「輪はあったか」
美咲が目を閉じる。
「足首に」
悠斗と蓮は同時に視線を落とした。
「どうして黙ってた?」
悠斗が聞く。
「香りで昔のことを思い出しただけだと思った。自分でも説明できなかったし、せっかくみんなが楽しんでたから」
美咲の声は弱かった。
「それに、私の記憶じゃない。あんな場所、行ったことないもの」
寝具の奥で、陽菜が身体を起こした。
「やっぱり、みんなも見てたんだ」
三人が振り返る。
陽菜は耳当てを外したまま、髪を肩へ垂らしていた。
「起きてたの?」
「途中から」
陽菜は毛布を抱き、机の近くへ移動する。
「私も話していい?」
悠斗がうなずく。
陽菜は膝を抱えた。
「春域の入眠施設で寝たとき、夢を見たの」
「どんな夢?」
美咲が隣へ寄る。
「子どもだった」
陽菜は自分の両手を見た。
「今の私より小さかった。森みたいな場所で、枝を拾ってた。背負った籠がいっぱいになるまで戻っちゃいけなかった」
「四季星だった?」
「木も草も地球と似てた。でも空に月が二つあった」
陽菜は息を吸い、ゆっくり吐く。
「近くに大人がいた。私はその人を家族だと思ってた。でも話しちゃいけなかった」
「どうして」
「作業中に話すと、その人の食事が減るから」
美咲が陽菜の肩へ手を置いた。
陽菜は続けた。
「籠が重くて転んだら、その人が助けてくれた。そしたら腕の数字が減った」
「善意信用?」
直人の声がした。
全員が振り向く。
直人は寝具の上で目を開けていた。
いつから聞いていたのか分からない。
ゆっくり身体を起こし、帽子を手に取る。
「助けたのに減ったなら、今の善意信用とは逆だ」
陽菜はうなずいた。
「その人は、私を助けたせいで連れていかれた」
部屋の空気が冷えた。
暖房は動いている。
それでも美咲は毛布を引き寄せた。
直人が机へ近づく。
「全員、似た夢や記憶がある」
悠斗は直人を見る。
「直人も?」
「ある」
短い返事だった。
直人は帽子を机の端へ置く。
「夏域の湖で、音の実を聞いた夜だ。誰かに追われる夢を見た」
「どこで?」
「地下通路」
蓮が顔を上げる。
「俺と同じかもしれない」
「石壁じゃなかった。壁に管が何本も通ってた。温かい水の音がしてた」
悠斗は昨夜見た案内図を思い出した。
温泉街から立入禁止区域へ続く管。
「冬域の施設じゃないか」
直人はうなずいた。
「夢の中で、俺は施設の構造を知ってた。曲がる場所も、隠れる場所も、扉の開け方も」
「逃げられた?」
陽菜が聞く。
直人は答えるまで時間がかかった。
「出口の前で捕まった」
美咲の指が陽菜の肩へ沈む。
「顔は見た?」
「見てない。後ろから押さえられた」
直人は自分の首筋へ触れた。
「そのあと、何かを当てられた。身体が動かなくなって、数字を読み上げられた」
「何の数字」
「逃走回数。再教育回数。子孫利用値」
最後の言葉に、全員が黙った。
窓の外が少しずつ明るくなってきた。
雪の町に朝が近づいている。
悠斗は机の上へ手を置いた。
「五人とも同じような夢を見てる」
「夢だけじゃない」
直人が言う。
「香り。場所。身体の痛み。何かがきっかけになって出てきてる」
陽菜が耳当てを握る。
「四季星へ来たから?」
「可能性はある」
「でも、どうして私たちだけ」
美咲の声が震えた。
直人は答えず、防寒着の内側から紙を取り出した。
昨日、温泉管の管理施設でもらった見学案内だった。
裏面には、町の簡単な地図が載っている。
直人はその上へ指を置いた。
「招待状には、無作為に選ばれたと書いてあった」
悠斗はうなずく。
地球へ届いた招待状。
突然選ばれた五人。
年齢も仕事も住む地域も異なる。
共通点などないと思っていた。
「本当に無作為だったのかな」
直人の言葉が部屋へ落ちる。
蓮は腕を組んだ。
「五人が同じ夢を見る確率は低い」
「同じではないよ」
美咲が言う。
「場所も、してたことも違う」
「でも共通してる」
直人は一つずつ指を折った。
「重労働。輪。数字。逃げられない環境。四季星の印。地球人に近い姿」
陽菜が顔を上げる。
「夢にいた人、みんな地球人に見えた」
蓮もうなずいた。
「俺の周りもそうだった」
悠斗は夢の中で倒れた人を思い出した。
泥で汚れた手。
汗の流れる首。
四季星人の額にある器官は、誰にもなかった。
「俺もだ」
美咲の唇がわずかに開く。
「じゃあ、あれは地球人?」
「地球人に近い誰かだ」
直人が答えた。
朝の光が窓から差し込む。
机の上に五人の影が重なった。
朝食の時間になるまで、五人は互いの体験を細かく話した。
夢を見た日。
直前にいた場所。
聞こえた音。
嗅いだ匂い。
身体に残った感覚。
悠斗は土の籠。
美咲は呼ばれる順番を待つ部屋。
直人は温水管の通る地下通路。
陽菜は森で枝を集める子ども。
蓮は石を削り続ける作業場。
全員の記憶には、同じ形の輪があった。
腕。
手首。
足首。
位置は違っても、数字が表示される輪。
それは善意信用の腕輪に似ていた。
ただし、記録されるのは親切ではない。
作業量。
食事。
逃走。
体力。
残り時間。
人の暮らしを支えるための数字ではなく、人を物として扱う数字だった。
直人は見学案内の裏へ、夢の中で見た通路を描いた。
真っすぐ伸びる管。
二つに分かれる角。
床にある格子。
その先の扉。
蓮が紙を覗き込む。
「この曲がり方、俺がいた場所にもあった」
「本当か」
「石を運ぶ通路の途中に、温かい水が流れてた」
悠斗が案内図を横へ置く。
温泉街から北側へ延びる管路。
二つの線を重ねる。
直人の描いた通路と、案内図の管路はよく似ていた。
陽菜が指先で線をなぞる。
「夢の場所が、昨日見た施設の地下にあるってこと?」
美咲は首を振った。
「夢なのに?」
直人が紙を折る。
「夢じゃないのかもしれない」
その一言に、美咲は両腕を抱いた。
「じゃあ何?」
「記憶」
「私たちの?」
「分からない」
直人は五人の顔を見た。
「自分たちが体験した記憶じゃなくても、誰かから受け継いだ可能性はある」
悠斗は眉を寄せる。
「受け継ぐって、家族から?」
「遺伝子を調べれば、先祖とのつながりは分かる。四季星の技術なら、地球で分かっていない情報まで調べられるかもしれない」
陽菜の膝の上で手が止まる。
「先祖が四季星にいたってこと?」
「可能性の話だ」
「未来は?」
蓮が言った。
全員が蓮を見る。
「先祖じゃなく、子孫の記憶かもしれない」
美咲が息をのむ。
蓮は静かな声で続けた。
「四季星は地球より進んでる。未来の血のつながりまで予測できるなら、俺たちの子孫がここへ来る可能性もある」
悠斗は夢の中の表示を思い出した。
身体価値。
継続可能時間。
直人が見た子孫利用値。
今ではなく、先を測る言葉。
「過去か未来かも分からないのか」
「どちらもありえる」
直人の声は冷静だった。
けれど紙を押さえる指先は強く曲がっていた。
扉が軽く叩かれた。
五人の肩が同時に動く。
リセラの声がした。
「朝食のお時間です」
悠斗は紙を直人へ返す。
直人はすぐに防寒着へしまった。
美咲が毛布をたたみ、陽菜が寝具を整える。
誰も夢の話をしていたことが分からないように動いた。
悠斗が扉を開ける。
リセラは廊下に立っていた。
淡い紫の髪を整え、いつもの穏やかな表情を浮かべている。
「よく眠れましたか」
五人の間に、ごく短い沈黙が生まれた。
悠斗は答えた。
「はい」
リセラの水色の瞳が、悠斗の顔へ向く。
「体調に変化はありませんか」
「大丈夫です」
「皆さんも?」
美咲が笑みを作る。
「少し早く目が覚めただけです」
陽菜もうなずく。
「朝の雪を見てました」
蓮は何も言わない。
直人はリセラの胸元を見る。
記録端末が小さく光っていた。
五人分の波形が並んでいる。
どれも普段より速い。
リセラは外套で端末を隠した。
「朝食後は、冬域の歴史資料館へご案内します」
直人の目が細くなる。
「歴史資料館?」
「冬域の開拓や温泉街の発展について学べる施設です」
「立入禁止区域の歴史もありますか」
リセラの表情は変わらなかった。
「公開されている地域について展示されています」
「公開されていない歴史もあるんですね」
悠斗が直人の前へ少し出る。
「朝食へ行こう」
直人はリセラから目を離さず、廊下へ出た。
朝食会場には、昨日と同じように温かな料理が並んでいた。
だが五人は、係員の腕輪を見るようになっていた。
料理を置く。
礼を言われる。
腕輪が光る。
椅子を引く。
感謝される。
腕輪が光る。
子どもへ食器を渡す。
家族が喜ぶ。
腕輪が光る。
親切のたびに数字が増える。
誰も疑わない。
誰も隠さない。
それが正しいことだと、全員が信じている。
美咲は温かな果実の汁を飲んだ。
昨日なら、すぐにおいしいと言っていた。
今日は係員の腕輪を見て、言葉を止めた。
係員が不安そうに尋ねる。
「味に問題がありましたか」
「違います。おいしいです」
美咲が答える。
腕輪が光る。
数字が増えた。
係員の顔が明るくなる。
美咲は容器へ目を落とした。
褒めた言葉は本心だった。
料理も本当においしい。
それでも数字が増えた瞬間、言葉の一部を持っていかれたように感じた。
歴史資料館は、温泉街の入口近くに建っていた。
大きな窓から雪山が見え、館内には暖かな空気が流れている。
入口には冬域の古い地図が展示されていた。
山。
湖。
温泉。
集落。
年代が進むごとに町が広がり、飛行場が作られ、私有地が増えていく。
案内役のトウラが地図の前に立つ。
「冬域は、四季星の中でも開拓が遅かった地域です。長い間、寒さと地形のため、住める場所が限られていました」
陽菜が古い地図を見上げる。
「昔は温泉街もなかったんだ」
「はい。地下の温泉源が見つかってから、急速に発展しました」
次の展示には、温水管を敷く人々の姿が映っていた。
雪の中で土を掘る者。
岩を運ぶ者。
管を組み立てる者。
全員が厚い防寒着を着ている。
悠斗は映像を見つめた。
夢の中の人々とは違う。
道具も服も整っている。
休憩場所もある。
映像の隅では、温かな飲み物が配られていた。
「この人たちは開拓者?」
美咲が尋ねる。
「はい。冬域の発展に貢献した方々です」
「全員、四季星人?」
直人が聞く。
トウラの瞳が直人へ向く。
「記録上は、そうなっています」
「記録上は?」
「当時の資料は一部失われています」
直人は映像へ近づいた。
奥に、別の列が映っている。
距離があり、姿は小さい。
土を運んでいるように見えた。
腕には輪がある。
悠斗も気づいた。
「奥の人たちは?」
トウラが表示へ手を伸ばす。
映像が次へ切り替わった。
「別の作業班です」
「今、腕に何かついてた」
陽菜が言う。
「安全確認用の装置でしょう」
「善意信用の腕輪じゃなくて?」
「古い型は形が異なります」
トウラの返事は早かった。
直人が映像を戻そうとする。
操作は受けつけなかった。
「来館者は前の映像へ戻せないんですか」
「順路に沿ってご覧ください」
蓮が別の展示へ目を向ける。
壁には、開拓時代の道具が並んでいる。
石を削る器具。
土を運ぶ籠。
管を持ち上げる帯。
蓮は籠の前で立ち止まった。
指先が震える。
「これだ」
悠斗が近づく。
「夢に出てきた?」
「同じ形」
蓮は籠へ触れようとした。
透明な壁に手が当たる。
その瞬間。
展示の奥から、石を打つ音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
蓮の呼吸が止まる。
目の前の資料館が揺らぐ。
冷たい地下。
湿った壁。
粉の舞う空気。
隣で誰かが倒れる。
上から装置音が鳴る。
作業を続けてください。
作業を続けてください。
蓮の膝が崩れた。
悠斗が腕をつかむ。
「蓮」
蓮は透明な壁へ手をついた。
額に汗がにじんでいる。
美咲と陽菜が駆け寄る。
「大丈夫?」
蓮は何度も息を吸う。
「音を止めろ」
トウラが展示へ触れる。
石を打つ音が消えた。
資料館の穏やかな音楽だけが残る。
リセラが蓮の前へしゃがむ。
「休憩室へ移動しましょう」
蓮はリセラの手を避けた。
「この籠は誰が使ってた」
「開拓者です」
「名前は」
「個人記録は残っていません」
「何人いた」
「分かりません」
「何人倒れた」
リセラの瞳が揺れる。
「そのような記録はありません」
蓮は立ち上がった。
悠斗が支える。
「記録がないんじゃない」
蓮は透明な壁の向こうの籠を見た。
「消したんだ」
周囲にいた来館者が振り返る。
トウラの端末が鳴った。
蓮の名前の横で、警戒を示す数値が上がっている。
リセラが外套を広げ、表示を隠した。
「今日はここまでにしましょう」
「まだ全部見てない」
直人が言う。
「真田さんの体調を優先します」
「俺は平気だ」
蓮は答えた。
声は低く、まだ震えていた。
「続きを見る」
リセラとトウラは顔を見合わせた。
やがてリセラが小さくうなずく。
「無理はしないでください」
資料館の奥には、善意信用の歴史を紹介する区画があった。
古い時代の争い。
食料不足。
土地を巡る対立。
人々の不信。
それらを解決するため、親切や貢献を数値として保存する制度が作られた。
映像の中では、人々が互いに助け合っている。
荷物を運ぶ。
食事を分ける。
病人を支える。
数字が増える。
町が豊かになる。
最後には、四季星全体が穏やかな社会へ変わっていた。
展示の中央に、大きな文字が浮かぶ。
善意は、見える形にしてこそ続いていく。
美咲はその言葉を見つめた。
「本当にきれいな制度だね」
陽菜が隣へ立つ。
「うん」
「でも、夢の中では違った」
「うん」
映像では、親切をした者が笑っている。
助けられた者も笑っている。
誰も苦しんでいない。
誰も疑っていない。
美咲は腕を抱いた。
「助けると数字が増える人と、助けると数字が減る人がいたのかな」
直人が答える。
「制度の外に置かれた人がいたなら、ありえる」
「制度の外?」
「四季星人として扱われなかった人」
陽菜の顔から表情が消える。
「夢にいた地球人みたいな人たち」
直人はうなずいた。
展示の音楽は明るいままだった。
子どもたちが映像の前で遊んでいる。
善意信用の印を集める体験装置へ触れ、楽しそうに笑っている。
一人の子どもが陽菜のそばへ来た。
「地球の人?」
陽菜は少し驚き、うなずいた。
「そうだよ」
「旅行、楽しい?」
「楽しいよ」
子どもの瞳が輝く。
「ぼくのお母さんも地球の人を案内したことがあるよ。善意信用がいっぱい増えたって」
陽菜の笑みが止まる。
「地球の人を案内すると増えるの?」
「うん。すごく増える」
母親らしい人物が慌てて近づいた。
「申し訳ありません」
「どうして謝るんですか」
陽菜が聞く。
母親は子どもの肩へ手を置く。
「案内事業の詳しい評価は、来訪者へ話さない決まりです」
直人が一歩近づく。
「地球人を案内すると、普通の観光客より多く増えるんですか」
母親の腕輪が小さく震えた。
「私からは答えられません」
「答えたら信用が減る?」
母親は黙った。
子どもが母親を見上げる。
「お母さん、今、数字が下がった」
腕輪の表示が一つ減っていた。
母親の顔が固くなる。
「帰りましょう」
「まだ遊びたい」
「帰ります」
母親は子どもの手を引き、その場を離れた。
子どもは何度も振り返った。
陽菜は小さく手を振る。
母親の腕輪はもう一度震えた。
また数字が減った。
「何も悪いことしてないのに」
美咲がつぶやく。
リセラは視線を落とした。
「規則に反する情報を話したためです」
「子どもが話しただけだよ」
陽菜が言う。
「管理機構は、年齢に応じて調整します」
「でも母親の数字が減った」
「保護する責任があるためです」
直人が乾いた笑いを漏らす。
「理想的な制度ですね」
リセラは何も返さなかった。
資料館を出ると、雪はやんでいた。
空気は澄み、山の輪郭がはっきり見える。
五人は温泉街へ戻る道を歩いた。
リセラとトウラは少し後ろを歩いている。
悠斗は声を抑えた。
「無作為じゃない」
美咲が足を止めかける。
「さっきの子どもの話?」
「地球人を案内すると信用が増える。俺たちが選ばれたことと関係がある」
直人が案内図を取り出す。
「それだけじゃない。五人とも同じ系統の記憶を持ってる」
「選ばれた理由が、夢?」
陽菜が聞く。
「夢そのものじゃない」
直人は周囲へ目を向けた。
「血のつながりか、遺伝子か、未来の子孫か。四季星は何かを調べて五人を選んだ」
蓮が拳を握る。
「価値が高い者を選んだ」
悠斗の夢に浮かんだ言葉が戻る。
身体価値。
作業価値。
直人の夢にあった子孫利用値。
夏域で見た反応価値。
今まで別々だった数字が、一本の線でつながり始めていた。
美咲が立ち止まる。
「じゃあ、私たちが笑ったり泣いたりするほど、誰かの信用が増えるの?」
「案内役や主催企業の」
直人が答える。
陽菜は後ろを振り返った。
リセラと目が合う。
リセラはいつもの穏やかな表情を作ろうとした。
けれど、少し遅れた。
陽菜は前へ向き直る。
「リセラさんも、私たちを選んだのかな」
「分からない」
悠斗が言う。
「でも、理由は知ってるかもしれない」
蓮は遠くの山を見た。
立入禁止区域は見えない。
その向こうに、自分たちの夢とつながる場所がある。
「確かめるしかない」
「施設へ行く?」
美咲が尋ねる。
「行く」
直人がすぐに答えた。
悠斗は歩きながら考えた。
旅はあと少しで終わる。
帰還の日は近い。
時間がない。
けれど急げば、五人全員が危険になる。
「今夜、管路の入口を探す」
悠斗が言う。
「中へ入るかは、入口を見てから決める」
直人は反論しなかった。
蓮もうなずく。
美咲は手を胸元で組み、ゆっくり息を吐いた。
陽菜は雪の上に残る五人の足跡を見た。
足跡は同じ方向へ続いている。
五人は住む場所も、暮らしも、家族も違う。
地球では出会う理由のなかった五人。
それなのに、同じ招待状を受け取った。
同じ旅へ連れてこられた。
同じような夢を見た。
偶然が幾つも重なれば、それはもう偶然には見えなかった。
旅館へ戻ると、昼食が用意されていた。
温かな煮込み料理。
香草を練り込んだパン。
果実の甘味。
昨日なら、五人は料理の話をしながら食べていただろう。
今日は誰も大きな声を出さなかった。
係員が皿を置く。
美咲が礼を言う。
腕輪が光る。
数字が増える。
美咲の言葉が止まる。
係員は笑顔で下がった。
陽菜が小声で言う。
「お礼を言うのも怖くなってきた」
悠斗はパンをちぎる。
「言わなくなる必要はない」
「でも増えるよ」
「向こうの数字のために食べてるんじゃない。係の人が料理を運んでくれたから礼を言う。それは俺たちの気持ちだ」
直人が煮込み料理を見つめる。
「向こうは、その気持ちを利用してる」
「だからって、俺たちまで全部変える必要はない」
悠斗の声は穏やかだった。
「利用されていることと、本当に楽しかったことは別だ」
美咲が少し顔を上げる。
夏域の湖。
冷感温泉。
花火。
秋域の料理。
冬域の飛行。
どれも偽物ではなかった。
美咲が笑ったことも、陽菜がはしゃいだことも、蓮が花火を見て涙を流したことも。
数値にされても、体験まで消えるわけではない。
「私たちのものだよね」
美咲が言う。
悠斗がうなずく。
「そうだ」
直人は少し黙り、料理を口へ運んだ。
「なら、取り返す」
「何を?」
陽菜が尋ねる。
「選ばれた理由を知る。向こうだけが知っている情報を、俺たちも知る」
蓮がパンをちぎった。
「それから決める」
「何を?」
美咲が聞く。
蓮は窓の外へ目を向けた。
「この旅を、どう終わらせるか」
その頃。
旅館の別室では、リセラとトウラが五人の記録を見ていた。
画面には夜間の睡眠反応が並んでいる。
朝倉悠斗。
過去系統反応、強。
藤原美咲。
感覚記憶反応、強。
高瀬直人。
逃走記憶反応、極めて強。
結城陽菜。
幼年系統反応、中。
真田蓮。
労働記憶反応、極めて強。
トウラが画面を横へ動かす。
五人の血統予測が表示された。
過去系統。
未来系統。
近似系統。
複数の線が重なり、中央の印へ集まっている。
「全員、反応しました」
リセラは答えない。
「選定部の予測より早いです」
「冬域の展示が刺激した」
「旅行工程に含まれていました」
「誰が決めた工程?」
「選定部です」
リセラは画面を閉じた。
「最初から、思い出させるつもりだったのね」
トウラの丸い瞳が揺れる。
「反応値を得るには必要です」
「旅行だと伝えて連れてきた」
「待遇に偽りはありません」
「目的は伝えていない」
トウラは唇を結んだ。
端末に新しい指示が届く。
五名の警戒値上昇を確認。
地下区域への接近を防止。
必要に応じて記憶安定処置を前倒しすること。
リセラは最後の一文を見つめた。
「記憶安定処置」
トウラが小さくうなずく。
「帰還前に予定されています」
「予定より早く行えば、旅の記憶まで失われる」
「最終的には失われます」
リセラの指が画面の端へ触れる。
五人の写真が並ぶ。
悠斗の穏やかな笑み。
美咲が花火を見上げる顔。
直人が装置を調べる目。
陽菜が鳥を追う表情。
蓮が温泉で力を抜いた姿。
すべて数字と一緒に保存されていた。
「今夜、動くと思います」
トウラが言う。
リセラは旅館の窓へ目を向けた。
雪の上を五人が歩いている。
一つの机を囲み、何かを話している。
もう、ただの観光客の顔ではなかった。
「監視を増やしますか」
リセラはしばらく答えなかった。
やがて、低い声で言う。
「増やさないで」
「しかし」
「増やせば、こちらが何かを隠していると教えることになる」
トウラは端末へ視線を戻した。
「本部へは、どう報告しますか」
リセラは五人の記録を見つめる。
「予定通り、旅行を楽しんでいると」
「事実と異なります」
「楽しんでいるのは事実よ」
リセラの水色の瞳に、窓から入る光が揺れた。
「疑っていることも、事実だけれど」
午後。
五人は温泉街の自由散策へ出た。
表向きは、最後の冬域観光を楽しむためだった。
店を巡り、蒸した果実を食べ、足湯に入り、雪像を眺める。
その途中で、少しずつ町の北側へ進んだ。
温泉水路は道に沿って流れている。
大きな管は建物の地下に隠れているが、所々に点検用の蓋があった。
直人は蓋に記された番号を覚えた。
蓮は作業車の進む方向を見た。
悠斗は警備の数を数えた。
美咲と陽菜は店へ入り、自然に町の話を聞いた。
「北の方には何があるんですか」
陽菜が菓子店の店員へ尋ねる。
店員は一瞬だけ動きを止めた。
「温泉源の管理施設があります」
「見学できますか」
「一般の方は入れません」
美咲が菓子を受け取る。
「働いている人は多いんですか」
「詳しくは知りません」
店員の腕輪が震える。
数字が一つ減った。
店員は慌てて話を変えた。
「こちらは冬域で人気の菓子です。温かいうちにどうぞ」
美咲は礼を言い、陽菜と店を出た。
二人は角を曲がってから足を止める。
「質問しただけで減った」
陽菜が言う。
「話しちゃいけない場所なんだ」
美咲は包みを開いた。
甘い湯気が上がる。
一口食べる。
おいしかった。
けれど店員のこわばった顔が消えない。
「善意信用って、親切を増やす制度だけじゃない」
「話していいことも決める制度」
陽菜が答えた。
二人は先に進む。
雪道の奥で、悠斗たちが待っていた。
直人が低い壁の向こうを指す。
細い道が北へ延びている。
観光案内図には載っていない道だった。
道の端には温水管の印。
その先には、小さな管理小屋が見える。
「夜にここへ来る」
直人が言う。
「管理小屋の裏に点検路がある」
蓮が周囲を見回す。
「警備は?」
「今は一人。交代の時間はまだ分からない」
悠斗は空を見上げた。
夕方まであと少し。
夜になれば雪が降る予報だった。
足跡は隠れる。
同時に、戻る道も分かりにくくなる。
「目印を決めよう」
悠斗は道沿いの温水口を確認した。
一定の間隔で湯気が昇っている。
「これをたどれば町へ戻れる」
直人がうなずく。
「今夜、全員で行く?」
美咲が尋ねる。
悠斗は四人を見た。
危険なら、一人か二人が残る方がいい。
けれど誰かが残れば、その者だけが知らないままになる。
陽菜が悠斗の顔を見上げる。
「五人で選ばれたんだよ」
蓮が続ける。
「知るのも五人だ」
直人はすでに決めている顔だった。
美咲も菓子の包みを閉じた。
「一人で待つ方が怖い」
悠斗は小さく息を吐いた。
「分かった。五人で行こう」
遠くで、旅館の鐘が鳴った。
夕食の時間を知らせる音。
五人は町へ戻り始める。
湯気。
雪。
食べ物の香り。
軒先の灯り。
四季星へ来なければ見られなかった景色が、道の両側に続いている。
それでも五人の目は、もう景色だけを追ってはいなかった。
見えるものの奥。
語られないもの。
数字の外へ置かれた者。
自分たちが選ばれた、本当の理由。
旅への疑問は、山の向こうの施設と同じように、簡単には隠せない大きさへ変わっていた。
夕食後。
五人は早めに休むと伝え、部屋の明かりを落とした。
廊下の足音が減るまで待つ。
温泉街の灯りが消えていく。
やがて雪が降り始めた。
悠斗は防寒着の留め具を確かめる。
美咲は長い髪をまとめ直す。
直人は案内図と、小さな灯りを防寒着へ入れる。
陽菜は耳当てをつけ、窓の外を確認する。
蓮は扉へ耳を当てた。
「廊下に誰もいない」
悠斗が窓を開ける。
冷たい風と雪が入ってくる。
部屋は二階だったが、窓の下には雪が深く積もった屋根がある。
そこから隣の階段へ移れる。
最初に蓮が降りる。
次に陽菜。
美咲。
直人。
最後に悠斗。
五人は旅館の裏へ降りた。
雪へ足が沈む。
町の音は遠い。
前方に温水口の湯気が見える。
直人が小さな灯りをつけた。
「行こう」
五人は北へ進んだ。
背後の旅館では、消えたはずの記録端末が一つだけ光っていた。
五人分の位置情報。
町の外縁へ移動中。
警戒通知。
端末の前に立つリセラは、画面を見つめていた。
指を伸ばせば、警備を呼べる。
本部へ知らせることもできる。
だが彼女の指は動かなかった。
雪の中を進む五つの点が、ゆっくり立入禁止区域へ近づいていく。
リセラは端末を閉じた。
廊下の向こうからトウラの足音が聞こえる。
「リセラ」
呼ばれても、すぐには振り返らなかった。
窓の外では、五人の足跡が雪に消され始めていた。
コメント
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みぅだよ🤍🥀 第7話、読んだよ。 五人が同じような“夢”を見てるって分かった瞬間、背筋が冷えた。 善意信用の裏側に、制度から外された人たちの存在がちらついて、すごく怖かった。 リセラが「増やさないで」って言った場面、すごく気になる。彼女も何かを知ってて、でもどうにもできないんだろうな…… 明るい旅の影に、こんなに重い真実が隠れてるなんて。 続き、ちゃんと受け止めさせてください。