テラーノベル
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夜明け前の王立衣装局は、まだ人の声を持たない。高窓の外に残る紺色の空から、薄い光だけがこぼれて、長机の上に置かれた糸巻きの影を細く伸ばしていた。
ジェイレンは桶の水をしぼった布で、自分の仕事台を端から端まで拭いていく。木目に入りこんだ粉をぬぐい、針山の位置をまっすぐに直し、小さな紙片を一枚だけ置いた。
――針目を揃える。
――一度で返事をする。
――午後までに袖口を三着。
書き終えると、彼女は紙片の端を指で押さえ、倒れかけていた糸切り鋏をそっと寄せた。母が店でよく言っていた。「朝の机が整っていれば、その日の縫い目は乱れにくい」。王都へ来てから一年、母の声を思い出さない日はない。
まだ正式採用ではない見習いの持ち場は、いちばん端だ。王女の披露衣装を扱う教師役たちの机からは離れ、裾上げの束と糸くず入れの籠が近い場所。華やかな刺繍台や宝石箱は遠くから眺めるしかない。それでもジェイレンは、不満を唇にのせる前に、机の隅に落ちた金糸を一本拾って糸立てへ戻した。
戸口の方から、眠そうな下働きたちの足音が近づいてくる。
「また一番乗り」
「地方の子って、ほんと早起きね」
笑われても、ジェイレンは振り向いて先に頭を下げた。
「おはようございます。棚の上の箱、運びましょうか」
相手は少しだけ気まずそうな顔をして、いい、と短く返す。そういうやり取りにも、もう慣れていた。王立衣装局は腕がものを言う場所だが、最初の視線だけは腕以外で決まる。出身、身分、話し方、持ち物。地方の仕立屋の娘が、王都の礼装を縫う場に立っている。それだけで、布地の値踏みのように見られることがある。
だが、見られるだけで針は動かなくならない。ジェイレンは布束を抱え、まだ火の入らない暖炉の前を通って、補修待ちの式典服へ向かった。今日の裾上げは騎士団用の礼装三着。生地は重く、金の組紐は豪奢で、けれど座った時に膝がつらないよう少しだけ余裕を残さなければならない。見た目だけでなく、着る人間の動きまで考えた縫い方を、彼女は好きだった。
朝の鐘が鳴るころ、作業室の空気が変わった。
朝の仕事が始まると、見習いたちはそれぞれの持ち場へ散った。ジェイレンも袖口の補修へ戻り、針を運びながら、布端の歪みをひとつずつ整えていく。悔しいことや言い返したいことが胸に溜まる日ほど、縫い目は正直だ。乱れた気持ちのまま針を進めれば、布の上にもそのまま出る。だから彼女は息をひとつ深く吸い、糸の引き加減だけに意識を集めた。
布の向こうから年上の縫い手が小さく言う。
「今日はずいぶん肩に力が入ってるわね」
ジェイレンは少し驚き、「そう見えますか」とだけ返した。すると相手は、からかうでもなく、針先で袖口を示した。
「でも、目は死んでない。そういう日は案外、いい仕事をするものよ」
思いがけない言葉に、ジェイレンはかすかに肩の力を抜く。王都の人たちは冷たいだけではない。ただ、親しくなるまでに幾枚も布を重ねるみたいに、距離の取り方が慎重なのだと思った。
硬い靴音が、廊下をまっすぐ進んでくる。いつもの教師役や運搬係の歩き方とは違う。ためらいがなく、床板の弱い場所を踏まない歩き方だ。
戸が開き、陽の色をまだ帯びない冷えた外気とともに、王城警護隊の一行が姿を見せた。先頭に立つ男は、胸元の銀章が朝の薄明かりを返すように光る。肩幅のある体つきだが、通路に置かれた縫製台を避ける動きに無駄がない。視線はまず窓、次に搬入口、最後に保管庫へ向き、ほんの数呼吸で室内の配置を頭へ入れているようだった。
「星糸祭まで三日。夜間警備を増やす」
低い声が、針音の止まった室内へ落ちる。
「北棟は出入りの記録を厳格にする。無断立入は誰であっても拘束対象だ」
教師役の一人が、そんなに物々しくしなくても、と眉をひそめたが、男は応じない。後ろの隊員たちに視線で配置を示し、自分はまっすぐ礼装棚の前へ進んで、錠前と蝶番を確かめた。
ジェイレンは補修箱を両手で抱えたまま、その横顔を見ていた。整った顔立ちというより、決めた位置から動かない石のような輪郭だった。笑えば雰囲気も変わるのかもしれないが、たぶんめったに笑わないのだろう、と勝手に思う。
その時、作業棚の上段に積まれていた木箱が、ぐらりと傾いた。
「あっ」
下にいたジェイレンが腕を伸ばすより早く、男が片手で箱の底を押し上げた。重い箱は大きな音も立てず棚へ戻され、こぼれかけた糸巻きだけがころころと床を転がる。
助かった、と言おうとした瞬間だった。
「危ない場所に立つな」
あまりにも真っ直ぐで、飾り気のない声だった。
ジェイレンの礼は喉の奥で止まり、代わりにむっと眉が寄る。
「箱が落ちるとは思いませんでした」
「思わなくても落ちる」
「……助けてくださったことには、お礼を申し上げます」
「礼は要らない。怪我をされる方が面倒だ」
なんて言い方だろう。助ける手は早いのに、言葉は針のように容赦がない。ジェイレンが転がった糸巻きを拾い集めていると、背後で小さなくすくす笑いが起きた。たぶん自分の顔に出ていたのだろう。
男は笑いに一切反応しないまま、手帳へ何かを書きつけた。後で下働きに聞いたところ、その名はパリック。王城警護隊所属、式典警備と貴重品護衛を任される若手の隊長格だという。
なるほど、とジェイレンは思った。あの人はたぶん、布を人と同じくらい信用していない。
午前の仕事は、警備の張りつめた空気のまま進んだ。王女の婚約披露用に用意された飾り袖、楽師用の上着、祭礼の垂れ幕。どこもかしこも締切だらけで、昼が近づくほど皆の口数が減る。
そこへ、階段を降りてくる靴音がひとつ。軽くはないが、迷いのない速度だ。
アドリアナだった。
朝の光を受ける灰青の衣装は無駄なく仕立てられ、腰から下がる裁ち鋏の革鞘にも曇りがない。彼女は作業台を一瞥しただけで、どの机が遅れているかを言い当てる。
「第三班、袖口の星刺繍が半刻遅れています。昼までに追いつきなさい。言い訳は食事の後で聞きます」
「ジェイレン、裾の内側。表から見えないからといって、針を急がせない」
「はい」
叱責は鋭いが、誰に向けても同じ角度で飛ぶ。だからこそ、皆が黙って従う。アドリアナが見本布を広げると、そこに並ぶ縫い目は、まるで白い息が一定の間隔で布に残ったように整っていた。ジェイレンは思わず見入る。あれほどの手が、自分にもいつか持てるだろうか。
その横へ、帳簿の束を抱えた青年が現れた。細身で、歩く時も紙を揺らさない。文書庫と衣装局の記録係を兼ねるアニトゥアである。
「備品移動記録を照合しました」
静かな声で言い、帳簿を開く。
「昨夜、礼装保管庫の前を通った記録があります。ですが使用申請がありません」
「記録違いでしょう」アドリアナが即座に切り返す。
「違いなら結構です。ただ、夜の三刻から四刻の間だけ、頁が一枚不自然に擦れています」
「今は祭礼前よ。帳簿のほこりまで相手にしている余裕はないわ」
「ほこりではなく指跡です」
その言葉で、近くにいた下働きが思わず顔を上げた。アドリアナは一瞬だけ表情を止めたが、すぐにまなざしの温度を消した。
「見習いは余計なことを考えず、手を動かしなさい」
それだけ言い残し、彼女は次の机へ向かう。
アニトゥアは帳簿を閉じる前に、ちらりとジェイレンの机の上を見た。針の並び、糸切り鋏、作業順を書いた紙片。何かを覚えるような目だったが、何も言わず去っていく。
午後、夕方、そして夜。祭礼前の仕事は終わらない。ジェイレンは糸棚の補充を言いつかり、閉室後まで一人で残っていた。壁のランプは二つしか灯されておらず、長い廊下へ出ると、光はもう月に奪われている。
北棟の回廊は、昼と夜でまるで別の建物のようだった。昼には人の声と布の色で埋まっている場所が、夜になると石の白さだけを残して静まり返る。高窓から差す月光が床に細い長方形を並べ、そこへ風が渡るたび、古い旗布が遠くでかすかに鳴った。
寮へ戻る近道は、礼装保管庫の前を通る回廊だ。
ジェイレンは糸籠を持ち直し、角を曲がった。その瞬間、足が止まった。
前方に、誰かがいた。
いや、違う。人ではない。
月白のドレスだった。
背の高さほどもある婚礼衣が、誰の身体も入っていないまま、回廊のまんなかに静かに立っていた。裾は床を撫で、胸元から腰へ流れる刺繍が、月光を吸いこんで淡く光る。星糸祭の名にふさわしい、夜空の糸をそのまま縫いつけたような意匠だった。
ジェイレンは息を飲み、糸籠を抱え直した。怖いのに、目が離せない。縫い目の取り方、裏打ちの重なり、袖口の返し――見れば見るほど、人の腕では届かないほど美しい仕事だとわかる。
次の瞬間、ドレスの裾がふわりと持ち上がった。
歩いた。
布が、人のように。
ジェイレンの頭の中で何かが弾け、考えるより先に足が動いていた。糸籠をその場へ置き去りにし、回廊を駆ける。白い裾は角を曲がるたび、わずかに遅れて揺れ、そのたびに衣擦れが笑い声みたいに聞こえた。
「待って……!」
自分でも、なぜ呼び止めたのかわからない。ただ、あのドレスはどこか困っているように見えた。誰も着ていないのに、胸元を押さえ、何かを落とさないよう急いでいる人の歩き方に似ていたからだ。
保管庫の手前で、ようやく裾へ指が届きそうになった時、背後から強い力で腕を取られた。
「夜間立入禁止区域で何をしている」
冷たい声が耳もとに落ちる。パリックだった。月光の下でも鎧の銀具が鈍く光り、その手は逃がさない形でジェイレンの手首を掴んでいる。
「離してください、今そこに――」
「誰もいない」
「います! ドレスが歩いて……!」
「疲れているなら医務室へ行け」
腹が立つ。だが怒鳴り返す暇もなく、ジェイレンは必死に身体をひねった。視線の先にはたしかに月白の裾がある。見えないのは、この人だけだ。
もみ合う拍子に、ジェイレンの指先が布へ触れた。
世界が、すべった。
月光の回廊がにじみ、代わりに暗い作業室が立ち上がる。誰かの震える手。針穴に糸を通そうとして、何度も失敗する白い指。封筒へ押しつけられる赤い蝋。かすれた声。息が苦しくなるほど押し殺された泣き声。
『……先生の恋人へ』
声に出していた。
ジェイレン自身がはっとして口を押さえるより早く、パリックの手がわずかに緩んだ。
「今、何と言った」
「わ、わかりません。見えたんです。きのうの夜のことが」
「きのうの夜?」
「布に触れると、ときどき……でも今はそれより――」
視界が戻る。月白の婚礼衣は保管庫扉の前で静かに揺れていた。逃げるでもなく、そこへ在ることを求めるように。
ジェイレンはパリックの手を振りほどき、今度こそ裾へ膝をつく。内側を探ると、刺繍糸の重なりの下に、ひどく不自然な硬さがあった。
「ここ、何か入っています」
縫い目は驚くほど緻密だったが、見つけてほしいという意思まで縫い込まれているようだった。ジェイレンが糸を一本だけ解くと、小さな封書が滑り出る。古びた紙は黄ばんでいるのに、包む布だけは白いままだ。
封には確かに書かれていた。
先生の恋人へ。
パリックが黙ったまま封蝋へ目を落とす。次の瞬間、その横顔の色が変わった。
「……なぜ、うちの紋章がここにある」
封蝋に押されていたのは、三本の剣を輪花で囲んだ侯爵家の紋章。朝、警護隊の書類袋についていたものと同じ意匠だ。ジェイレンは封書とパリックを見比べる。
「ご実家の?」
「グランツ侯爵家だ」
低い声は、朝のような硬さとは違っていた。刃の裏に手を当てた時のような、切れる前の危うい静けさだ。
回廊の向こうで、どこかの窓が鳴った。気づけば、さっきまで目の前にあった婚礼衣は消えている。残ったのは封書と、ほどかれた裾と、月光の白さだけだった。
翌朝、封書はジェイレンとパリックに挟まれる形で、アドリアナの机へ置かれた。
アドリアナは蝋印を見た瞬間、指先から血の気が引くのを隠しきれなかった。だが、それはほんの一拍だった。彼女はすぐに封書を手に取り、机の引き出しへしまう。
「この件は忘れなさい」
命令だった。
ジェイレンは戸惑う。昨夜から頭の中にこびりついて離れない、震える手とあのかすれ声がある。忘れられるものではない。
「けれど昨夜、あのドレスは」
「その衣装の名を、軽々しく口にしないで」
アドリアナが声を荒らげたのを、ジェイレンは初めて見た。室内の空気がしんと固まる。彼女はすぐ息を吸い直し、いつもの低い声へ戻ったが、握った拳の白さだけは消えなかった。
「祭礼前です。古いいたずらに構っている暇はありません」
「いたずらではありません」パリックが言う。
「封蝋は本物です。保管庫周辺で不審な動きもあった」
「だからこそ、なおさら口を閉じなさい。これ以上この局に泥を塗るつもりですか」
その言い方に、ジェイレンは胸の奥がざらついた。泥を塗っているのは誰だ。昨夜、助けを求めるように歩いていたのは、布の方だったのに。
部屋の隅で帳簿を整理していたアニトゥアが、黙ったまま一冊の台帳をめくっていた。やがて封書の紋章と頁の記号を見比べ、低くつぶやく。
「隠すほど危ない」
アドリアナの目が鋭く向いたが、青年は視線を逸らさない。
「保管番号が欠番です。偶然なら、帳簿が整いすぎている」
「アニトゥア」
「整いすぎている帳簿ほど、あとで泣きます」
それだけ言うと、彼は帳簿を抱えて部屋を出た。
昼のあいだ、ジェイレンは針を持ちながらも、ずっと昨夜のことを考えていた。仕事はこなした。針目も乱していない。だが、布の奥から誰かの息が聞こえるようで落ち着かない。
夕方、寮へ戻るふりをして、彼女は北棟へ引き返した。保管庫へ近づいたところで、暗がりから声がした。
「やはり来たな」
パリックだった。
昼間と同じく真顔だが、今夜は腕を掴んでこない。代わりに鍵束を軽く振ってみせる。
「勝手に入る気なら止める」
「そちらこそ、単独で来る気だったんですか」
「職務だ」
「便利な言葉ですね」
「そちらの好奇心よりは便利だ」
売り言葉に買い言葉になりかけた、その時だった。
保管庫の奥から、音もなく白いものが滑り出た。
今度は二人とも、はっきり見た。
月白の婚礼衣が、ふわりと宙に身を起こすように現れ、彼らの前を横切っていく。袖は誰の腕も通していないのに、風を受けるように膨らみ、裾は石床の上を静かに撫でた。パリックが一歩前へ出る。だが剣に手はかけない。相手が布だと理解した人間の、ぎこちない構えだった。
「……見えるのか」
ジェイレンの問いに、パリックは目を離さないまま短く答えた。
「ああ」
婚礼衣は二人の正面でくるりと向きを変えた。胸元へ走る刺繍のあいだに、昨日はなかった赤い糸が浮かび上がっていく。まるで見えない針が、その場で文字を縫っているように。
――きのうの夜のことを
――まだ話していない
赤い文字が結ばれた瞬間、ジェイレンの背に鳥肌が走った。
これは怪異ではない。ただの脅かしでもない。話していないことがある。話せなかったことがある。布はそのために歩いている。
婚礼衣が再び奥へ退き、保管庫の闇へ溶けるまで、二人とも追えなかった。
先に口を開いたのはパリックだった。
「明日、記録をあたる」
「私も行きます」
「危険かもしれない」
「昨夜、危ない場所に立つなとおっしゃったのは覚えています。でも、あの布は私に触れさせました」
「だから危ない」
「だから行きます」
しばらく見つめ合ったあと、パリックはごく浅く息を吐いた。あきれたのか、折れたのか、その両方かもしれない。
「……なら、勝手に走るな」
「そちらこそ、見えていないうちから人を盗人扱いしないでください」
「見えた今はしていない」
「今後もしないと約束してください」
「善処する」
善処。なんとも頼りない返事なのに、ジェイレンは少しだけ笑ってしまった。夜の回廊で、たしかに同じものを見た相手がいる。その事実だけで、昨夜より息がしやすい。
保管庫の奥では、月白の裾が最後に一度だけ揺れた。まるで、続きを急げと合図するように。
寮へ戻る道すがら、ジェイレンは月を見上げ、それからそっと自分の指先を見た。そこには婚礼衣の白い糸が一本、まだ引っかかっている。ほどこうとしても、なぜかすぐには離れなかった。まるで、まだ終わっていないと言うように。
遠くの鐘が夜更けを知らせても、胸の奥でほどけかけた糸だけは、まだ静かに震え続けていた。明日へ向かう針のように、細く、強く、まっすぐ。そのまま。
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