❖稲燃原(いなもえはら)
「……なんで、誰もいないのに風鈴が鳴ってるの?」
風もない。人の気配もない。
それなのに、何十、何百という風鈴の音が、途切れることなく響いていた。
駅名は稲燃原(いなもえはら)。
改札を抜けると、むっとするような熱気が体にまとわりつく。
夜なのに気温は38℃。空気は重く、遠くの稲穂がぼんやり揺れている。
だが、そこに虫の音も人の声もなかった。
いたのは、高田 佑麻(たかだ・ゆうま)、17歳の高校生男子。
日焼けした肌、肩まであるぼさぼさの黒髪。
タンクトップに制服ズボンという投げやりな格好で、
左手には、壊れかけのミニ扇風機を握っている。
ポケットには、火を入れていないライターと潰れた煙草。
彼は汗だくになりながら田んぼ道を歩いていた。
道の両側には、赤と銀の風鈴が一定間隔で吊るされており、
どれも糸が切れていないのに、強く揺れている。
「あっつ……なんでこんなとこ来たんだ、俺……」
思い出せなかった。
なぜこの駅に降りたのか、なぜ歩いているのか。
ただ、何か探し物をしていた感覚だけが、ずっと体の中に残っている。
道の先には、ぽつんと古い平屋の民家があった。
軒先に小さな風鈴屋の札が下がっている。
入口には、浴衣を着た老婆が一人、座っていた。
「風鈴、見に来たんかい?」
「……え?」
「ここでは、“もらい風鈴”って言ってね。
ひとつ選べば、何かが代わりに置いてかれるんさ」
佑麻はよくわからないまま、ひとつの金色の風鈴に手を伸ばした。
中には、小さな紙がぶらさがっていて、そこにはこう書かれていた。
「ほんとうは泣きたかったって、 気づいたのは、ぜんぶ終わってからだった。」
次の瞬間、周囲の風鈴が一斉に鳴り止んだ。
空気が凍りつく。風が止まる。
民家の奥から、「おーい」と声がする。
佑麻は手に持った風鈴を胸に、ふらふらと家の中へ入っていった。
……目を覚ますと、南新宿駅のホームだった。
ポケットの中のミニ扇風機はなくなっていた。
代わりに、制服の胸ポケットに金色の風鈴の音玉だけが残されていた。
それは微かに、揺らしてもいないのに、
**カラン……カラン……**と、誰かを呼ぶように鳴り続けていた。
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