テラーノベル
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真帆の搬送時、私は当直ではない。
連絡を受けたのは、元担当医として過去画像の確認を求められたためだった。個人的関係を理由に担当から外れていることは、診療記録にも残っている。
病院へ着くと、慧が検査室で画像を準備していた。
「現在の胎児心拍は?」
「遅発一過性徐脈を繰り返しています。担当医が持続モニター中です」
「過去画像に、今回の判断へ影響する所見は?」
「明らかな異常はありません。今日の状態は、今日の所見で判断するべきです」
過去の臍帯位置や巻絡を理由に、現在の胎児機能不全を説明することはできない。
「担当医へは?」
「報告済みです」
私たちは分娩室へ向かった。
真帆は汗で髪を額へ貼りつかせ、呼吸を乱していた。
「千紘……」
「私は担当ではない。過去画像の確認だけに来た」
「怖い。この子、助かる?」
「今、担当の先生とチームが対応してる。説明を聞いて」
「ここにいて」
伸ばされた手を、すぐには取れなかった。
以前なら、迷わず握っていた手だった。
でも今、友人として寄り添えば、元の関係へ戻れると期待させてしまうかもしれない。医師として入りすぎれば、利益相反になる。
助けたい気持ちと、近づいてはいけない理由が、胸の中でぶつかった。
「医療者はそばにいる。私は必要な所見を渡したら外へ出る」
「冷たいね」
「曖昧な優しさを使わないためよ」
泣きながら頷いた。
胎児心拍は一度回復したものの、再び低下した。体位変換や必要な処置を行っても、基線へ戻りにくい。
担当医が緊急帝王切開を決める。
「高瀬先生、手術室の人員が不足しています。患者との関係は承知していますが、補助へ入れますか」
診療責任者からの正式な要請だった。
「執刀と最終判断は担当医。私は補助へ限定し、その理由を記録してください」
「分かりました」
私は利益相反を再度申告した上で、手術室へ入った。
麻酔薬の匂い。器具が触れ合う金属音。短い指示が飛ぶ。
真帆の腹部から取り上げられた赤ん坊は、すぐには泣かない。
新生児科医が処置を始める。
ほんの数秒のはずなのに、終わらない時間みたいに長かった。
泣いて。お願いだから、泣いて。
声には出さず、何度も繰り返した。
やがて、細い泣き声が響き、肩から力が抜ける。
母体も安定し、赤ん坊は新生児室で経過観察となった。
手術室を出ると、慧が紙コップの水を差し出した。
「母子ともに安定しています」
「助かりました」
「担当医と新生児科を含めたチームの判断です」
「分かっています」
私一人が救ったことにしない言葉が、ありがたかった。
今日、母子を助けたのは担当医も、新生児科医も、看護師も含めたチームだ。
慧は、私を英雄にして慰めようとはしなかった。
翌日、必要な診療説明が全て終わってから、真帆の病室を訪ねた。
「千紘、ありがとう」
「担当の先生とスタッフへ伝えて。私は補助に入っただけ」
「それでも来てくれた」
「患者だったから」
真帆の目に涙が溜まる。
「何度謝っても足りない」
「謝罪を受け入れるかは、今すぐ決めない」
「うん」
「あなたと赤ちゃんへ必要な医療をしたことと、友人へ戻れるかは別よ」
「分かってる」
机には、自治体の産後支援と、ひとり親相談窓口の案内が置かれていた。
「遼介さん、来なかった」
「連絡したの?」
「した。院内の事情聴取で動けないって。この子を産めば父親になってくれると思ってた」
「認知と、父親として生きることは同じじゃない」
「やっと分かった」
新生児室の方角を見る。
「私、一人で育てられるかな」
「病院の相談員や行政へ繋がって。遼介には法的な責任を取らせる」
「千紘は手伝ってくれないよね」
「絶対しない。医師として必要な支援先を案内することはできる。でも、友人として子育てを支える約束はできない」
「曖昧に優しくされるより、その方がいい」
病室を出ると、新生児室の前に航平がいた。
ガラス越しに眠る赤ん坊を見つめ、入室はしない。
「会いに来たんですね」
「自分の中で確認したかった」
「何を?」
「この子を見たら、父親として育てたいと思えるのか」
長い沈黙のあと、首を振った。
「無理です。子どもは悪くない。でも、自分の子として引き受けることはできない」
「その選択を責める人はいません」
「出産までの必要な費用は、弁護士と相談して負担します。親子関係も正式な手続きで確認する。でも、真帆の夫には戻らない」
私へ頭を下げた。
「あなたも被害者なのに、二人を助けた」
「医療は、許した相手だけへ行うものではありません」
「分かっていても、僕にはまだ近づけない」
「無理に立派な人にならなくていいと思います」
ガラスへ背を向けた。
赤ちゃんに罪がないことは、航平も分かっている。
それでも、裏切りの中で生まれた命を自分の子として育てられるかは、別の話だ。
ここで引き受ければ立派で、離れれば冷たい。そんな簡単な話ではない。
私は航平を責められなかった。
廊下へ出ると、橘から連絡が入った。
『離婚協議の条件がまとまりました。最終確認の日程を決めましょう』
真帆の出産は終わった。
そして今度は、私が自分の結婚を終わらせる番だった。
画面を見つめながら、胸の奥で静かに息を吐いた。
コメント
1件
**リオンです。** 医療現場の緊迫感がすごく伝わってくる回でした。千紘が「曖昧な優しさを使わないためよ」と線を引きつつも、手術室で心の中で「泣いて」と願う場面、すごく印象的です。航平が「父親として育てたいと思えるのか」と自問し、無理だと認める選択にも胸が詰まりました。そして最後の「今度は私が自分の結婚を終わらせる番」――千紘自身の物語が動き出しそうで、次が気になります。
白波 灯
219
鬼霧宗作
303