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櫻子は、襦袢姿で台所の板間に座り、休んでいる。
まだ、体の熱が取れないだろうからとお浜に言われ、着物は肩から羽織るだけにしていた。
横で、お浜が団扇で風を送ってくれている。
「ごめんよ、櫻子ちゃん。いや、やっぱり、奥様だね。馴れ馴れしく、櫻子ちゃんだなんて呼べた立場じゃないよ……」
「そうだぞ!お浜!なんだ、その櫻子ちゃん、ってーのは!一人で抜け駆けしやがって!羨ましいだろっ」
そこへ、風呂の湯を沸かす為にお浜が焚き付けていた薪の始末を終えた龍が、お勝手から台所へ戻って来た。が、何故か後ろ向きで、よたよたと歩んでいる。
「龍……あんた、何してんだい?」
「そ、そりゃ、奥様の一大事で……」
「あー、もう奥様なら、着替えてるよ」
ほお、なんだ、そうか、と、龍は調子良く答え、くるりと身を翻したが、いけねぇーと、また、背を向けた。
「じゅ、襦袢、襦袢姿じゃねぇか!お浜!そ、そんな、乱れたお姿、見れる訳ねぇーだろっ!!」
「いや……裸じゃないしさぁ、別に構わないと思うんだけど……」
バカヤローと、龍はお浜を怒鳴りつける。
櫻子は、慌てて、羽織っている着物に手を通すと、身頃の袷をしっかり押さえた。
「……龍さん、大丈夫ですよ」
櫻子に遠慮して、後ろを向いている龍へ、声をかける。いつまでも、後ろ向きに歩かせる訳にもいかないと。
「龍……さん……!!」
しかし、龍は、叫び、お、お浜、てめぇ、ちんたら、なにしてんだっと、一人勢いづいて、土間から板間へ飛び上がると、屋根裏へ続く階段箪笥へ駆け寄った。
「扇風機の方が、風おこせるだろっ!上に仕舞ってあったよなっ!」
慣れた動きで、タンタンと音をたてながら、龍は、階段をのぼり、屋根裏へいく。
「……扇風機、ですか?」
櫻子も、その存在は知っていた。
大正2年に、川北電気企業社から12インチ電気扇風機が発売された。
以降、各社が参入し、本格的に卓上の国産扇風機が量産され始めると、電気扇風機は、あっという間に一般家庭に普及したのだった。
もちろん、柳原の家でも、使用していたが、当然、櫻子は、使えなかった。貴重な物だからと、近寄ることすら禁じられていたのだ。
「……勝代だね?」
少しばかり口ごもった櫻子に、お浜が、苦々しそうに言う。
「……あいつは、昔から、気にくわないんだ……ったく、あざとい女だよ」
「お浜さん、御存じなんですか?」
ええまあ、と、言ったきりお浜は、押し黙った。
「……そいつぁーね、深川で、芸者をしてたんですよ」
手に扇風機を持って、階段を下りてきた龍が、代わりに答える。
「で、まあ、色々あって……ここにいる訳で」
龍がそこまで言った所で、ガラガラと玄関のガラス戸が開いた。
「誰だよ。今日、約束は、入れてなかったはずだ……。ちょっと見て来るわ」
怪訝な顔で、龍は、扇風機を持ったまま、台所を出ようとするが、つと、立ち止まる。
「お浜、その先は、てめぇーで話せ。それと……さっきは、すまなかった」
龍は、そっと、意味ありげにお浜へ言った。
「ああ、わかってるさ。それより、龍、扇風機……」
「いざというときの、武器だ」
着物の袖を巻き上げながら、何かあった時、に、備えつつ、龍は、台所を出ていった。
「……まったく、扇風機で、何ができるんだよ……」
ごちる、お浜の顔つきは、固い。
「……お浜さん?」
声をかけて良いのか、ためらうほど、お浜は、思い詰めた表情をしていた。
「……奥様、あたしゃーね、人を殺《あや》めてるんですよ」
「え?」
聞き間違いかと、櫻子は、お浜を見るが、そのお浜は驚く櫻子へ、頷いた。
「……驚いたでしょ?逃げ出したくなったでしょう?」
言いながら、お浜は眉尻をさげ、涙をはらはら、流した。
「憎かった。ただ、それだけ。あたしゃー、目一杯、あの子を可愛がったのに……」
わっと声をあげ、お浜は泣き出した。
「……風呂に、風呂に、沈めたんですよ。あの子の若さが、憎かった。あたしから、全て奪ったあの、若い体が……」
泣きじゃくりながら、お浜は、ぽつり、ぽつりと、語っていく。
何があったのか、櫻子には、皆目わからなかった。
ただ、お浜の言った、憎かった、という言葉が、耳から離れない。
──憎かった。
それは、櫻子に、柳原の家での事を、思い出させるものだった。
どす黒い靄が、腹のそこから沸いてくる。何かわからない、どう表現すればよいのかわからない。黒く、暗い、汚ならしい、何かが……。
それが、櫻子の中で渦巻く憎しみという感情であると、気がついた時、どうしてか、珠子の姿が、過った。
新聞に乗っていた、珠子の姿が、櫻子の頭の中で、渦巻いた。
──憎かった。
そうなのだ。櫻子も、憎かった……。珠子のことが、憎かったのだ。
堪らなくなにかを、吐き出したくなる。
それは、嗚咽という形で、櫻子の中から流れ出て来た。
「……奥様。奥様も……憎かったでしょうに……」
お浜は、自分と共に泣きじゃくる、櫻子を見てぽつりと言った。
「……ええ、憎くくて、当たり前ですよ。あたしは、あたしは、自分の気持ちが、押さえられなかった!あの子は、あたしの、客をことごとく、寝取って行った。あたしは、姉貴分の芸者だ。だから、堪えましたよ。いや、そんな客の取り方をするなと、言いましたよ。そしたらね……笑いやがった。あたしの考えは古いって」
そこまで、言って、お浜は、宙を臨むと、大泣きした。
「……どうしても、許せなかった。憎いと思ったのはね、あたしが惚れてた、一緒になろうって約束した、あんひとまで、寝取ったからなんですよ」
そして、お浜は、その妹分の芸者を銭湯に誘った。どんな体で、自分の想い人を誘ったのか、確かめる為だった。
最初は、ただ、それだけだったのだ。
「でもね、若い体を見てしまったら、張りのある肌を見てしまったら。湯が弾け、肌を流れる、ほんのり、熱に染まった若い体が、あんひとに、抱かれていると思ったら……あまりにも、悔しくて、気がついたら、あの子を湯船に沈めてた……」
「……お浜さん」
櫻子は、泣きながら、お浜へ声をかけた。
「そのあとは、そりゃー大騒ぎで。まあ、そうなりますわ。あたしは、三助やら、風呂屋の人間に、羽交い締めにされ……あたしゃー、悪くないのに、皆、湯船に浮かんでいるあの子を心配するばかり……。あたしにはね、奥様のように、助けてくれる旦那様は、いなかった……」
「やめて!お浜さん!!お浜さん!!」
櫻子は遮二無二叫ぶと、お浜にしがみついた。