テラーノベル
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人間という生き物は、追い詰められると現実逃避をするらしい。
目の前の空っぽな画面をいくら見つめても、そこは押し寄せる白い無の世界。
アイデアは逃げるように消え去り、頭の中はただの雑音であふれる。
「後で考えればいい。」その思考は甘い毒のように彼を支配し、彼はその誘惑に抗えなかった。
つまり何が起こっているかと言うと、展開に行き詰まったレンが「今日はもう寝る!」と、ふて寝をしてしまったのだ。
机の上には、書きかけのノートが無防備に広げられたままである。
普段はパソコンに向かっているレンだが、どうしてもプロットが行き詰まると、初心に帰るためなのか、それとも形から入るタイプだからか。
お気に入りの万年筆を使って、厚手のノートに手書きでアイデアを書き殴るのだ。
「ぅう…、どうしてここで被害者が2人目の毒殺に応じちゃうんだよ……。犯人の動機がこれじゃ薄すぎる。もうダメだ、ゲームしたい、パンケーキ食べたい。」
いつもニコニコしている好青年のレンが、涙目で現実逃避を始めてしまった。
そして枕に顔を埋めると、数十秒で小さないびきをかき始めた。
喜怒哀楽が激しいのは彼の美点だが、諦めの早さもまた、天下一品である。
吾輩はベッドの端から、そんな頼りない飼い主を見つめ、「にゃあ」とため息混じりに鳴いた。
しかし、不思議な現象が起きたのは、翌朝のことだった。
「……え? なにこれ、僕、寝ぼけて自分で書いたのかな?」
目を覚ましたレンが、机の上のノートを見て奇妙な声をあげた。
吾輩が肩に飛び乗って覗き込むと、レンが昨日「動機が薄い」と頭を抱えていたページの余白に、青黒いインクで、驚くほど美しい文字が書き足されていた。
『第二の被害者は、犯人の過去の罪を知る唯一の人物。毒殺ではなく、あえて「最初の事件の模倣」に見せかけることで、警察の捜査を攪乱する動機が生まれる。』
「そっか……! これなら動機もトリックも一本の線で繋がる!」
レンはノートを抱きしめ、部屋中を飛び跳ねて喜んだ。
「もしかして僕には、寝ている間に覚醒する『もう一人の天才的な人格』が眠っているのかも! ありがとう、僕の中の天才!」
相変わらずおめでたい脳味噌である。
だが、吾輩は知っている。
レンには多重人格の兆候など一切ない。
彼はただ、寝相が恐ろしく悪いだけの平凡で純粋な青年だ。
そしてこの「謎の書評家」の訪問は、一度きりでは終わらなかった。
レンが新作の構成に行き詰まり、ノートを広げたまま寝てしまう夜に限って、翌朝には決まって、その余白に鋭く、かつ物語への愛に満ちたアドバイスが、あの美しい文字で書き残されているのだ。
おかげで敏腕編集者のハラダ氏からも、「最近のプロットのキレは素晴らしいですね、この調子でいきましょう。」と、満面の笑みで褒められたらしい。
レンは「僕の中の潜在能力が覚醒したみたいです!」と嬉しそうに答えたようだが、世の中に理由のない奇跡など存在しない。
レンではない。
夜中に誰かが部屋に忍び込み、彼の万年筆を使って書評を残している。
吾輩の鋭い鼻は、そのノートの周辺から漂う、レンのものではないある特有の匂いを嗅ぎつけていた。
それは少し油臭い、野生の羽の匂いだ。
吾輩はフンと鼻を鳴らし、今夜も案の定、プロットを広げたまま気絶するように眠りについたレンを確認すると、静かに窓辺へと向かった。
時計の針が深夜の2時を回った頃。
月明かりが四畳半の部屋を静かに照らす中、トントン、と窓ガラスを突っつく微かな音がした。
レンが換気のために数センチだけ開けていた窓の隙間から、するりと黒い影が滑り込んでくる。
それは、夜の闇をそのまま切り取ったかのような、一羽の大きなカラスだった。
カラスは音もなく着地すると、慣れた手つき(いや、足つきか)で机の上へと飛び乗った。
そして嘴で器用に万年筆のキャップを外すと、ペン先をインク瓶に浸し、ノートの余白に向かって迷いのない動きで文字を紡ぎ始めた。
なるほど。
真夜中の書評家は怪盗でも妖精でもない、街の賢い黒い鳥だったのか。
このカラスは、レンが昼間、窓を開け放して「あーでもない、こーでもない」と大声でプロットを音読していたのを、外の電信柱の上でずっと聴いていたのだろう。
レンはズボラだから、お菓子のゴミやパンの耳をよく窓際に放置する。
それを目当てに集まっていたカラスは、いつしかレンの紡ぐミステリーのファンになり、同時に人間の文字の並びを完全に記憶してしまったらしい。
カラスはひとしきり文字を書き終えると吾輩の方を振り返り、低く「カァ」と鳴いた。
文字は読めなくとも、物語を愛する者同士の対話は可能だ。
カラスの鳴き声は、吾輩の耳にはこう聞こえた。
「どうかな猫の旦那。今回の解決策は、少しひねりが足りないだろうか?」
吾輩は机の上に飛び乗り、カラスが書いた文字をじっと見つめた。
読めはしないが、そこから漂う物語の熱量は伝わってくる。
吾輩は前足で、ノートの少し上の行をぽんと叩き、「にゃあ」と短く鳴いた。
(ここにある、最初の伏線を組み込んではどうだろう。)
「ほう、なるほど。さすが作者の一番近くにいる同居人殿だ。目の付け所がいい。」
カラスは嬉しそうに喉を鳴らすと、再び万年筆を嘴に咥え、吾輩の助言通りに文字を書き足していった。
一羽と一匹による、深夜の秘密の編集会議。
文字の読めない猫と、文字を書くカラスが、売れない作家の物語を極上のミステリーへと磨き上げていく。
これほど奇妙で、小気味よい時間が他にあるだろうか。
作業を終えたカラスは、満足そうに万年筆を元の位置に戻すと、レンが窓際に置いていた食べ残しのクッキーの欠片を一つ摘んだ。
「じゃあな、名探偵。彼に、良い結末を書くように伝えてくれ。」
黒い書評家は、再び夜の闇へと羽ばたいて消えていった。
翌朝。
「うわあああ! 本物の天才だ! 伏線の回収が完璧すぎる!」
起きてきたレンの歓喜の絶叫が、四畳半の部屋に響き渡った。
彼はノートを胸に抱きしめ、涙を流して感動している。
「見てくれよ! 僕の中の天才が、また最高のアイデアを授けてくれたんだ! これでハラダさんも絶対に驚くぞ!」
吾輩は「にゃあ」と呆れたように鳴き、彼の腕からするりと抜け出した。
まさか自分の物語のクオリティを上げているのが、窓際のクッキーを狙う一羽のカラスと、文字の読めない飼い猫の深夜の密談によるものだとは。
彼の純粋な作家のプライドを守るためにも、永遠の秘密にしておくのが賢明というものだ。
「よし! 原稿も捗りそうだし、今日のご飯は奮発して、あの最高級のマグロ缶にしよう!」
レンは上機嫌でキッチンへと走っていった。
開け放たれた窓からは、心地よい朝の風が吹き込み、机の上のノートのページを優しくめくっていく。
電信柱の上からは、あの黒い友人が、満足そうにこちらを見守っているのが見えた。
吾輩は陽だまりの中で、ゆっくりと髭を整えた。
文字は読めなくとも、主人の凡庸なノートを傑作へと導いてやるくらい、猫の肉球にかかれば造作もないことなのである。
【真夜中の書評家】
ruruha
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コメント
2件
挿し絵が凄く可愛い♥️ 書籍化してほしいです!
わああ最新話やばすぎる!!😭💕 夜な夜なカラスが万年筆でアドバイス書き足してるとか最高すぎるでしょ!しかもそれを猫ちゃんが見守ってて、まさかの文字読めないけど肉球で伏線の修正箇所をトントンしてるとか…尊すぎて涙出る〜🥺✨ レンくんが無意識の天才扱いされてるのも可愛いし、カラスが「どうかな猫の旦那」って聞いてくるのもエモい!!こういう心温まる秘密の協力関係、めちゃくちゃ好きです!⋆♡ 次回も楽しみにしてます✍️🐦⬛