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天気予報は午後30%、夕方80%と言っていた。それなのに、私は真っ赤な傘を家に置いてきてしまった。
朝の青空があまりにも気持ち良かったから。
面倒くさかったから。
結果――今、退勤時刻のエントランスで、私は愕然と立ち尽くしていた。
大粒の雨がアスファルトを激しく叩きつけ、跳ね返る水しぶきが靴を濡らしている。
社屋から目と鼻の先にあるコンビニまで、横断歩道が二つ。
信号が赤に変われば、確実に全身ずぶ濡れだ。
「……最悪」
自宅の傘立てに突っ込んである、あの派手な赤い傘を思い浮かべながら、私は小さくため息をついた。
歩道に飛び出そうとした、その瞬間。
雨が、止んだ。
いや、止んだのではない。
大きな、男性用の紺色の傘が、私の頭上に静かに差し出されていた。
「ん……?」
「あっ! か、係長!」
そこに立っていたのは、濃灰のスーツに紺色のネクタイを締めた黒木係長だった。
フレームレスの眼鏡に雨粒が弾け、落ちる。
「お疲れ様です……!」
「あぁ、ご苦労様。満島さん、傘忘れたのか?」
「……はい」
「天気予報、見なかったんだな」
「見たんですけど……面倒くさくて」
黒木係長は小さく吹き出した。
そして、私の頭上を覆っていた傘を、さらに深く差し込んでくる。
「なら、俺の車まで一緒に来るか? 駐車場にあるから」
ドキッ。
心臓が跳ねた。
「駐車場まで行けばもう傘はいらない。満島さんはこれ使って」
「あ……はい」
ホッとしたような、残念なような、不思議な気持ちが胸に広がった。
雨粒が歩道の凹凸に水溜まりを作り、私たちはそれを避けながら地下駐車場へと向かった。
ほんの数十メートルなのに、時間が異様に長く感じる。
話すこともなく、ただ雨音だけが響く。
ふと横を見ると、係長の左肩が黒く濡れていた。
私のために傘を傾けてくれているせいだ。
地下駐車場に繋がる階段の入り口で、黒木係長は木製の傘の柄を私の手にそっと押しつけた。
小指が、ほんの少しだけ触れ合う。
「じゃあ」
ピッ、という電子音とともに、暗がりで黒いトヨタ・クラウンのハザードランプが点滅した。
最新モデルで、タイヤがやけに大きい。
係長は右手でオールバックの髪を軽く掻き上げ、笑顔で手を振った。
ドキッ。
また、心臓が跳ねた。
(……何、これ)
頭の中で、建への謝罪会見が勝手に始まる。
ごめんね、建。
少しだけ、ときめいてしまった。